暁斎 その交流さまざま展@河鍋暁斎記念美術館
ちょっとした用事のついでに、河鍋暁斎記念美術館へ行きました。我が家からだと同じ方向だったので。
駅から歩くと結構あります。涼しい日でよかった。
昨年こちらに伺った時も似たような時期だったと思って記録を調べてみたら、ほぼ一年ぶりでした。この季節になると行きたくなるんでしょうかねえ?
まず、ミュージアムショップで入場券を買い、展示室に向かうと自動でチャイムが鳴り、係りの方が出迎えてくれます。
展示室の電灯を点けて第一展示室へ。
第1展示室
1《老なまづ 暁斎(無落款)、文:仮名垣魯文 安政2年(1885) 大判錦絵
戯文の下に暁斎の絵。芸者が三味線を弾くのに合わせて、両脇と足に団扇をつけた男が鯰に扮して踊っている。
安政の大地震(1855)の翌日に戯作者の仮名垣魯文と組んで出版し人気を博したという。このコンビで幕末の動物見世物絵を数多く手がけ、雑誌ジャパン・パンチに対抗して日本発の漫画雑誌「絵新聞日本地」や「安愚楽鍋」を出した。
2《舶来虎豹幼絵説 暁斎(署名:応需惺々坊/印:狂斎)、文:仮名垣魯文 万延元年(1860) 大判錦絵横二枚続》
右に振り返って睨む虎、左には咆哮する豹が描かれています。日本画で虎と豹の組み合わせは多く、なんでも昔は豹を雌虎と間違えていたからだそう。江戸末期には日本でも博物学がだいぶ進んでいたはずだけど、暁斎の時代も誤解のままだったのでしょうか。
3《牛鍋屋引札「流行尽し」(署名:応需惺々暁斎/印)、文:総生寛 明治9年(1876)頃 摺物・色摺》
文章の下に、すき焼きをする女の画。女の周りには酒や羽子板が置いてある。
引札とは今でいうチラシのこと。書かれているのは「西洋道中膝栗毛」の第14編に出てくる日本から届いた手紙。三重五重の建物にペンキが塗られ、葡萄酒、ビイル、サンパン、アルコウルを飲み、ずぼんにしゃっぽを付け「羽子つく、ねいさん、牛を喰ふ」と西洋化した日本のことを綴っている。これがそのまま牛鍋屋の宣伝用のちらしになった。
4《異物六合戦 暁斎(署名:惺々暁斎)、文:万亭応賀 明治13年(1880)頃 大判錦絵》
狂句にあわせて、将棋合戦、蛙合戦、犬合戦、雀合戦、鶏合戦、蜂合戦の六つの合戦が描かれている。蜂合戦には髭でぎょろ目の蜂の大将に攻め込む旭日旗を掲げた猩々の兵隊が描かれ「密談のみつに 巣をくむ 高森は 二四に 名高き 蜂の合戦」とあり、西南戦争をもじったものと思われる。
5《当京八卦 暁斎(署名:惺々暁斎)、文:万亭応賀 明治13年(1880)頃 大判錦絵》
狂句にあわせて、文明開化東京の八つの風景を描いて風刺したもの。
6《鬼神無横道 暁斎(署名:応需惺々暁斎/印:河鍋)、賛:万亭応賀 武川板 大判錦絵》
傘を背中に太鼓を持った赤鬼の画。大津絵で有名な鬼の念仏を題材にした版画。賛には「福はうち 鬼は 外面に 佇めバ 戸さへ 悪魔の 這り 處なし」とある。
7《戯画 鬼 暁斎(署名:惺々暁斎) 明治12年(1879) 校合摺》
膝を折って座る鬼が指差す先には物干しがあり、瓜の皮のような細長いものがくるくるとぶら下がっている。「明治十二卯月 勝安房先生 応需図之 正田氏使」とあり、勝海舟の注文に応じて書いた戯画であることがわかる。
8《暁斎楽画第二号 榊原健吉山中遊行之図 暁斎(署名:惺々暁斎) 明治7年(1874) 沢村屋板 大判錦絵》
高下駄で右手に扇子を持ち、腕まくりをして見得を着る榊原健吉。周りに大猿、狐、骸骨、山犬など。足元には手を合わせて命乞いする土竜の姿も。尻餅をついている骸骨の腰の部分にあるのは、打ち捨てられた手提げ提灯か。
榊原鍵吉(健吉ではない)は明治の剣術家で暁斎の友人。以前Bunkamuraの暁斎展で観ている。
9《入増盛算 暁斎(署名:惺々暁斎/印:惺々暁斎)、勝文斎椿月 福田熊次郎板 大判錦絵三枚続》
小槌を振るう大黒様とそろばんをする恵比寿様、それを見ているおかめの画。大黒様は暁斎が、恵比寿様とおかめは、暁斎が描いたものを勝文斎が写した。文は、「宗祇のぼたんハ 壱厘、材木の局を 三厘、人のみちハ 五厘、火をお古すを 七厘」と入・増・盛のどれもが商売によいことから語呂合わせで数える内容。
14《宝山松開花双六 暁斎(署名:惺々暁斎)、広重、国周、芳年ほか 守田重兵衛板 錦絵》
東京の開化名所八景を八人の絵師がそれぞれに描いて宣伝用にした双六。暁斎は「六 大仏晩鐘」を描いた。
15《「PROMEADES JAPONAISES TOKIO-NIKKO 日本散歩 東京-日光」 エミール・ギメ著、フェリス・レガメ画 シャルパンティエ社(パリ)刊 1880年》
1876年に来日したエミール・ギメは9月に湯島の暁斎宅を訪れ、同行した画家フェリックス・レガメと肖像画を描きあった。展示はレガメの画で画室に佇む暁斎。壁には額が掛けられ、棚にはお面や猫の置物、筆などの画材が置かれている。
19《暁斎絵日記 乾 明治18年2月21日・22日 暁斎画 紙本墨画(一部淡彩)》
暁斎画日記で明治18年1月1日から11月17日までのもので、乾坤二冊(上巻、下巻の意味)になっているうちの一部。引越しを控えたコンドル(コンデル)がフランシス・ブリンクリン一家に居候をしていたことがわかる。
20《「JAPANISCHER HUMOR 日本のユーモア」 クルト・ネットー、ゴットフリート・ワグネル共著 Leipzig 1901年刊》
蛸が八本の手を駆使して太鼓や笛で演奏するのを蛙や河豚や烏賊が見て楽しんでいる。遠くから女神もその様子を眺めている。
著者の二人はともに明治期にお抱え外国人として来日。本書は日本人のユーモアについて達磨やおとぎ話を収集して紹介したもの。暁斎が一部口絵を描いた。
製本された暁斎の絵。古色がほとんど感じられないが、やはり上手いものは上手いと改めて思う。
掛軸ケース
Ⅰ《鯉之図 ジョサイア・コンドル(署名:暁英筆/印:J.CONDER PINXIT) 絹本墨画金彩 軸装》
二匹の鯉と五匹の小魚を描かれている。これは、暁斎が描いた《鯉魚遊泳図》の一部を模写したもの。
Ⅲ《松に鍾馗図 暁斎(署名:応需惺々暁斎/印:酒瓶型)、瀧和亭(為嘱作古松以補全景 和亭) 絹本軸装》
鍾馗に髪を掴まれて共に走らされる二匹の赤鬼が描かれている。暁斎が鍾馗と鬼を、瀧和亭が背景の松を描いた。
暁斎が得意にしていた鍾馗なだけあって、とても生き生きとしている。
Ⅳ《鍾馗に鬼図 暁芳(署名:暁芳女/印:暁芳) 絹本着色》
鍾馗に右足を掴まれて逆さ釣りにされている赤鬼の画。
暁芳は暁斎と暁翠の弟子。暁斎の最晩年の弟子とされる。
第2展示室
23《見立十二ヶ月之内 五月 十郎祐成 市川左団次 国周・暁斎(署名:惺々暁斎/印) 明治9年(1876)頃 沢村屋版 大判錦絵》
十二ヶ月シリーズのひとつで、市川左団次演ずる十郎祐成を豊原国周が描き、コマ絵の鍾馗を暁斎が描いた。
国周は役者似顔絵を得意とした浮世絵師で、離別した妻は40人を超え、83回も引っ越しするなど奇行も有名。江戸っ子同士の暁斎とは喧嘩仲間と言われ、国周の新居祝いにかけつけた暁斎が、国周の羽織に墨をつけて絵を描いて大喧嘩したという話がある。
31《河竹黙阿弥作「漂流奇譚西洋劇」米国砂漠原野の場 下絵 暁斎 明治12年》
黙阿弥の下絵(27)を元に描かれた大下絵。難破してアメリカ人に救われた三保蔵が、大陸横断鉄道に乗ってアメリカ横断中、砂漠でインディアンに襲われる場面。インディアンが頭に羽をつけた金剛力士像のような顔で描かれている。完成作品は現存していて、ドイツのビーティッヒハイム市立美術館に所蔵。
漂流奇譚西洋劇は新富座で上演された日本初のオペラ。歌舞伎「源平布引滝」の劇中劇である。
36《団扇をもつ美女 歌川国芳 大判錦絵縦二枚繋》
暁斎が数え7歳で入門した浮世絵師国芳の美人画。片手に虫かごを持ち、三羽の雀が描かれた団扇を軽く噛む女。やわらかい仕草。
ほぼ貸切状態だったので、何事にも邪魔されず集中して鑑賞できました。320円で河鍋暁斎の世界にどっぷりと浸れるなんて、このうえない贅沢。しかし、全部通しで観るには体力不足で、途中、第二展示室のソファで休憩しました。筋力不足を痛感するお年頃。長く美術鑑賞できるように、もっと体力つけなきゃなあ。
展示を見終わって、cafe musee “の" でカプチーノ。
カップに「烏思印」が入っています。右に並べて置いたのは、ミュージアムショップで買った、百円鴉の缶に入った榮太樓の黒飴です。
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