ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信@千葉市美術館
ざっと十年ぶりに千葉中央駅に降りました。昔とはすっかり様変わりしていて、迷いそうでした。駅から歩いて15分ほどで千葉市美術館に到着。千葉市中央区役所を兼ねた立派な建物です。
元は昭和2年に建てられた旧川崎銀行千葉支店の建物で、それを覆うように、新しい建物が作られました。一階には、八本の円柱が並ぶネオ・ルネサンス様式の空間である、さや堂ホールがあります。
千葉市美術館では、現在「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」を開催しています。
鈴木春信 (1725?‐1770)は、 錦絵にしきえ創始期の第一人者として知られる浮世絵師です。この展覧会では、質・量ともに世界最高の春信コレクションを誇るボストン美術館の所蔵品から、選りすぐりの作品を展観します。
プロローグからエピローグまで7章に分けての展示です。
以下、気になったものをメモとして残します(所蔵元のないものは全てボストン美術館所蔵品)。
プロローグ 春信を育んだ時代と初期の作品
春信の活躍する少し前は紅摺絵の時代で、温かみのある色合いにつられるように優しいまなざしの感じられる作品が多かった。
この章では、展覧会の導入として、春信を育んだ時代の先行絵師たち、すなわち奥村政信(1686-1764)、石川豊信(1711-85)、鳥居清広(生没年不詳)ど、先行の浮世絵師が残した温和で優美な画風を味わいつつ、希少な春信初期の作品を通して、その画風形成の様子を展観します。
4《石川豊信(1711–85) 紅葉を焼いて酒をあたためる若い男女 宝暦(1751-64)前期 倍細判紅摺絵》
若い男が紅葉の枝に薬缶を紐でぶら下げ、紅葉の葉を炊いて温めている。向かい合わせに座る女が火に紅葉の小枝をくべている。白居易の「林間煖酒焼紅葉 石上題詩掃緑苔」と幼馴染みが故郷に帰るのを想い出を交えて詠ったものになぞらえたもの。
何が目を惹くって、女が足を開いてしゃがんでいるのが珍しい。立膝で座っているのは他で見覚えがあるが、ヤンキー座りのようなしゃがみ方をしているのは初めてです。江戸時代の座り方を調べて見ると、多くはあぐらか片膝立か蹲踞が一般的で、正座が世間一般的に礼儀正しいとされるようになるのは明治時代以降のよう。
5《石川豊信 伊達虚無僧姿の男女 宝暦期(1751-64) 紅摺絵》
手のひらサイズの二枚の短冊に虚無僧の伊達姿をした男女を描いたもの。傷みが激しい。豊信は、役者絵の二人虚無僧を他にもいくつか残している。ロマンティックな世界観を象徴する図柄の一つとして、春信、歌麿も描いた。
6《石川豊信 相合傘の比丘尼と佐野川市松 宝暦期(1751-64) 細判紅摺絵》
柳の下で相合傘をする、黒衣に笠を被った比丘尼と佐野川市松を描いたもの。佐野川市松は美貌で知られた役者で、家紋の「丸に同の字」が傘に入っている。江戸・中村座での舞台「心中万年草」で小姓粂之助を演じたのが大当たりした。このときの袴の石畳模様は市松模様の名で流行した。
8《鳥居清広 「お七 山下金作 吉三郎 小佐川常世」 宝暦5年(1755)6月 細判紅摺絵》
柳の下の床几に腰掛ける吉三郎に扮する小佐川常世と、湯呑みを差し出す八百屋お七に扮する山下金作。
キャプションに、当時は似せて描くという意識がなかったと書いてあった。浮世絵が写実性とはかけ離れた世界だということは、誰の目から見ても明らかだが、改めてこう書かれたことで、てんで似せる気がなかったのかと思うと面白い。現代の漫画に繋がるまで、人形のように描くというのは、まさに日本の伝統芸か。だからこそ、役者をリアルに書いた喜多川歌麿の画はとても革新的なもので、反発も大きかったと想像できる。加えて、男女の区別があまりないというのも、戦争のない世の中の常なのかと思う。
11《鳥居清満 「名古屋小山三 坂東彦三郎 薪水」 宝暦9年(1759)11月 細判紅摺絵》
参考《鈴木春信 「はん七 坂東彦三郎 薪水」 宝暦10年(1760) 細判紅摺絵 千葉市美術館蔵》
よく似た構図で描かれた坂東彦三郎の役者絵二枚を見比べる。鳥居清満のと比べると、春信のは線の肥痩が控えめで、顔が幾分ほっそりしている。「さそはれて 風のあぢ見ん すゝきはら」とある。
18《鳥居清広 小野道風 宝暦(1751-64)前期 細判紅摺絵》
柳の下で傘を指す烏帽子を被った女が、蛙が飛び上がるのを見ている。見立て小野道風である。平安時代の書家小野道風が、蛙が必死に柳の葉に飛び移ろうとするのを見て最初馬鹿にしていたが、偶然にも強い風で柳がしなり見事に蛙が飛び移れたのを見て、努力することを決心した逸話がある。
20《鈴木春信 見立三夕「定家 寂蓮 西行」 宝暦(1751-64)末期 大判(細判3丁掛)紅摺絵》
世界で1点しか確認されていない春信初期の作品で、夕暮れを詠んだ著名な和歌「三夕」の歌人定家、寂蓮、西行が美人に置き換えられて夕暮れの背景とともに描かれている。右の藤原定家の小間絵には「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」とあるとおり、背景に鄙びた小屋が描かれている。中央の女の上の小間絵には寂蓮法師と「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」とあるとおり、緑の山々が描かれている。そして、左の女の上の小間絵には西行法師と「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」とあるとおり、鴫の姿がある。二人の女は敷物の上に片膝立ちで脇息にもたれて座っている。中央の女は立ち姿。振り袖の袖口に豇豆(ささげ)があり、髪はおすべらかしにしている。
参考《西川祐信(1671 -1750) 『画本倭比事』「三夕一躰之図」 寛保2年(1742) 墨摺絵本10巻10冊のうち ラヴィッツ・コレクション 千葉市美術館蔵》
20の背景に用いたモチーフがそのまま描かれている。春信の師である西川祐信の作品を参考にしたのが明らか。
23《鈴木春信 「風流やつし七小町 かよひ」 宝暦(1751-64)末期 細判紅摺絵》
七小町は、小野小町を題にした七つの謡曲の総称で、本作はそのうちの一つ、通小町をやつしたもの。小町との約束で百夜通いのすえに、精根尽きた深草少将の霊が死後も小野小町の霊を追うが、僧の回向で成仏する話。やつしと題名があることから、立っている美人が当世風に描かれた小野小町で、腰掛けている娘が深草少将。美しいお姉さんに憧れる若い娘の真摯な気持ちが描かれている。小間絵に「あかつきの榻の端書き百夜がき 君が来ぬ夜は我ぞ数かく」と書かれている。
第1章 絵暦交換会の流行と錦絵の誕生
錦絵は明和期のはじめ、武家や裕福な商人の趣味人たちを中心に、私的な摺物である絵暦交換会の流行をきっかけに誕生した。その後、版元たちが商材を働かせ、当時売買が禁じられていた暦の文字部分や依頼者の名前を削って売りに出したのが東錦絵と呼ばれるようになった。
27《鈴木春信 見立孫康 明和2年(1765)絵暦 中判摺物》
孫康(そんこう)は中国東晋から劉宋にかけての官吏で、貧しい中から立身出世した人物。冬には窓の外に積もる雪が月光を受けて照り返す光で勉強していたと伝えられており「蛍の雪」の歌詞でよく知られている。
窓を開け、雪明かりで文を読む遊女の姿を孫康に見立てて描いている。手紙の文字が明和2年の小の月を表している。着物の長襦袢の襟がよれて描かれているのは、左手を懐手にしているからでしょうか。障子や帯、着物の裾に空摺りがある。
28《鈴木春信 見立孫康 もと明和2年(1765)絵暦 中判錦絵》
27の暦と版元の印を削った第二版。色味が全体的に濃くなった。
29《鈴木春信 夕立 明和2年(1765)絵暦 中判摺物》
突然の夕立で洗濯物を取り込もうとする女。突風に洗濯物も女の着物も激しくめくれ上がり、下駄も飛ばされている。洗濯物の模様が明和2年の大の月になっている。身分の高さを表すため、絵暦制作を依頼した趣味人「伯制工」の署名とくらべて、絵師の春信、彫師、摺師の名は小さく書かれている。
31《鈴木春信 紅葉を焚く女 もと明和2年(1765)絵暦 中判錦絵》
網代垣の内側で烏帽子を被った女が紅葉を焼いているところに、若い垂髪の人が短冊を手渡している。白居易の「林間煖酒焼紅葉」を踏まえたものと見ることもできるし、平安時代を思わせる装いから、紅葉を愛した高倉上皇が幼少期、下人が掃除した紅葉の葉を燃やして酒を温める薪にしたのを咎めなかったという、平家物語の逸話の見立てとも取れる。
春信の絵では手が小さく描かれていると同時に、懐手にしたり袖口で手を隠す表現が多く見られる。日本舞踊で手を袖口に入れて出さない仕草を教わったが、手の存在感を出さないことは当時からの伝統らしいと気づいた。
35《鈴木春信 鳳凰に乗って空を飛ぶ女(見立弄玉仙か) 明和2年(1765)絵暦 中判摺物》
笙を手に鳳凰に乗った女。髪型と打掛けで武家の娘であることがわかる。弄玉仙とは、中国春秋時代の秦の女性。簫史という仙人から、鳳凰の声のような簫(しょう)の吹き方を学び、彼女が簫を吹くと鳳凰が飛来したという。
41《鈴木春信 座鋪八景 鏡台の秋月 明和3年(1766)頃 中判錦絵》
獅子の衝立がある部屋で、髪を結われる女。部屋鏡台の鏡を瀟湘八景の秋月に見立てた。窓の外には薄が風にたなびいている。
42《鈴木春信 引手茶屋の遊女と禿と小犬 明和3年(1766)頃 中判摺物》
煙管を手にした遊女と二人の禿がいる。座る禿の膝に首に赤い紐をつけた黒い子犬(サイトハウンド)。もう一人の禿が子犬に餌を見せて遊んでいる。禿の振り袖に豇豆。青簾の中程を棒で外に突き出すように掛けているので、ここが吉原の引手茶屋であることがわかる。引手茶屋は、遊女屋へ客を案内する前に芸者らを招いて酒食をさせる場所。
50《作者不詳 鳥籠売り 明和2年(1765)絵暦 中判摺物》
鳥籠を並べた小屋の看板に明和弐の文字。小屋の壁に大の月が記されている。板を担ぐ女が手にしている扇に金が使われている。商品の錦絵では採算が合わないので、まず使われない。
54《小松軒(小松屋百亀) 頼光一行と衣を洗う女 明和2年(1765)絵暦 間判摺物か》
頼光一行が山伏姿で二瀬川を登り酒呑童子のすみかに向かう途中、酒呑童子に囚われ、血染めの衣を洗う女官に出会う場面を描いたもの。女官の着物の菱形に明和が薄く記され、雪輪の中の絞りの数で暦が表されている。
第2章 絵を読む楽しみ
春信の錦絵では、当世風俗を描く作品の中に、古典物語や故事の名場面をひそませ、鑑賞者に絵を読む楽しみを提供している作品が多くあります。このような古典から当世への置き換えを軸に、その解読と妙を楽しむという趣向を持った作品群は、見立絵またはやつし絵という用語で呼ばれています。
56《鈴木春信 見立玉虫 屋島の合戦 明和3-4年(1766-67)頃 中判錦絵2枚続のうち左》
【参考出品】《鈴木春信 見立那須与一 屋島の合戦 明和3-4年(1766-67)頃 中判錦絵2 枚続のうち右 個人蔵》
平家物語の屋島の合戦で、那須与一が揺れる舟の上の扇の的に矢を当てた逸話を見立てたもの。船の上に立つ女の着物の柄が平家の軍船を表している。参考出品の方は、扇に貼る地紙売りの若衆が案山子の弓を拝借し、恋文を結びつけた矢をつけて弓を引いている。男の後ろに茄子畑があるので、那須与一の見立てとされる。
57《鈴木春信 山吹の枝をさし出す娘(見立山吹の里) 明和3-4年(1766-67)頃 中判錦絵》
若い太田道灌が突然の雨にあい、蓑を借りようと貧しい小屋に入ったところ、娘が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき(貧しくて箕さえありません)」の意味が込められていたと知って無学を恥じたという逸話を見立てたもの。
59《鈴木春信 鷺娘 明和3-4年(1766-67)頃 中判錦絵》
綿帽子や雪にきめ出し、振り袖に空摺りがある。鷺娘は歌舞伎や日本舞踊の演目で、白無垢に黒い帯、頭に綿帽子の衣装で始まり、その後衣装を引き抜き、華やかな振り袖姿になって舞う。
62《鈴木春信 見立白楽天 明和6年(1769)頃 中判錦絵》
唐人は蘭の絵を女はお仙の絵を見せあっている。能で白楽天が日本に渡航し、 そこで年老いた漁夫に会った。白楽天が漢詩を作ると漁夫は即座に和歌で返した。漁夫は隠れ、 再び白居易の前に住吉明神として現われ、舞を見せたと思いきや白居易を神風で追い返す逸話に見立てたもの。
73《鈴木春信 百人一首「安倍仲麿」 明和5年(1768)頃 中判錦絵》
隅田川から三囲神社越しに月を眺める女たち。雲に百人一首にある阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも」が書かれている。船の上に立つ遊女を故郷の奈良を偲ぶ阿倍仲麻呂に見立てたもの。
第2章の最後に写真撮影コーナーがあり、《見立玉虫・那須与一、屋島の合戦》の特大パネルが設置されていました。
傍らに小道具まで用意されているサービスのよさ。見立玉虫・那須与一、屋島の合戦なりきりセットです。
扇と弓矢まではわかりますが、茄子を持ってどうしろと(笑
第3章 江戸の恋人たち
春信の作品には、若い男女を描いた恋の図の名品が多く知られています。振袖を着た若い娘と前髪を残した若い男は、同じように華奢な姿で、年齢でいえば15、6歳といったところでしょう。現実的な生々しさや肉感をことごとく排した男女の姿は、純粋で清々しい初恋のイメージを伝えているようです。
開幕以来150年余りを経て、武士にも戦の記憶はない安定した都市の幸福に恵まれる中では、男性的な力強さを必要とせず、華奢で優美な表現が好まれたようです。
77《鈴木春信 桃の小枝を折り取る男女 もと明和3年(1766)絵暦 中判錦絵2枚続》
桃の枝を折ろうとする若い男と見返る振袖の娘。二人の目が合い、恋を予感させる場面。西王母と蟠桃を盗みに来た孫悟空の話を連想させる。
78《鈴木春信 猫を抱く美人と鼠を持つ若衆 明和4-5年(1767-68)頃 中判錦絵》
鼠を手にする若い男と猫を抱く振り袖の娘が見つめ合う場面。鼠には紐がついていて、男の左の袖口に消え、首筋に持ってきた懐手にした右手でその紐をつまんでいる。当時、鼠を飼うのが流行ったという。
81《鈴木春信 「風俗四季哥仙 卯月」 明和5年(1768)頃 中判錦絵》
雲の中を飛ぶ郭公を見ようと天蓋笠を脱いだ似非虚無僧。若衆の男ぶりがよいので、窓から覗いている二人の娘が驚いている。垣根の側に卯の花が可憐に咲いている。雲の中には、鎌倉時代の和歌集、白河殿七百首にある「人もとへ咲や卯月の花さかり こてふに似たる宿の垣ねを」ホトトギスは夏の時を告げる鳥として有名。夏の花である卯の花になぞらえて卯月鳥とも呼ばれる。
83《鈴木春信 「寄菊」夜菊を折り取る男女 明和6-7年(1769-70)頃 中判錦絵》
「寄」で始まる恋を連想させる揃物のひとつ。闇夜にまぎれて菊の花をとろうとする若衆が、灯火を差し掛ける若い娘と目を合わせている。雲内に為敦の和歌「待えしとおもふ夕へもとふ人の 袖の色なるしらきくの花」とある。
85《鈴木春信 伊達虚無僧姿の男女 明和6-7年(1769-70)頃 大判錦絵》
会場に入ってすぐ正面に展示されていた春信の代表作。互いを気にかけつつ歩く姿が微笑ましい。
第4章 日常を愛おしむ
穏やかな日常、無償の愛情を子どもに注ぐ母親、屈託無く遊ぶ子どもたちの姿など、春信は江戸の人々の日常や子どもたちをよく主題としています。どこにでも見られるさりげない日常が、殊更に絵の主題となり、それを購入する人が多くいたという事実にも、浮世絵の特性を感じずにはいられません。
86《鈴木春信 風流五色墨「宗瑞」 明和5年(1768)頃 中判錦絵》
着せ替え中に子供が立ち上がったので二人が驚いている。雲内に伊勢宗瑞(北条早雲)「これはこれは 這子立てり ころもかへ」とある。傍らに赤い紐を首につけた猫。着せ替えをする乳母の袷が開けたまま。子供の帯に迷子札がついているのも興味深い。
92《鈴木春信 五常「智」 明和4年(1767)9月 中判錦絵》
手習いの少女たち。江戸時代は子どもの教育に熱心で、男女問わず識字率は高かった。題字に「智 道しある世に生まれなばをのづから ひとつをしらば十もしらなん」とある。うさぎ型の水入れ。見台の上や下にある手本が暦になっている。
94《鈴木春信 雪の湯帰り 明和3-4年(1766-67)頃 中判錦絵》
雪に濡れないよう高下駄を履き傘をさして、湯から帰る母娘。方に手ぬぐいをかけ、湯上がり用の浴衣を丸めて持っている。
第5章 江戸の今を描く
当時江戸で評判の実在の美人たち、中でも谷中笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」の娘お仙、次いで浅草寺境内の楊枝屋ようじや「本柳屋」の娘お藤は、たびたび春信の錦絵の主人公となりました。
また江戸名所を人物の背景に描きこむことが多くなるのも、この時期の春信作品の特徴と言えます。江戸のランドマークを背景とした男女の姿は、人々が真に江戸という都市への愛着を持った時代らしい息吹を伝えています。
112《鈴木春信 鍵屋お仙と猫を抱く若衆 明和6年(1769)頃 中判錦絵》
猫を膝に床几に腰掛ける若衆と、帯の裾で猫をあやす茶屋の娘。胸の桐紋で鍵屋とわかる。お仙は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。雲内に宗尊親王「いつよりか秋の紅葉の紅に 袖の涙のならひそめけん」とある。江戸時代、庶民は汚れが目立たないよう黒の掛け襟をつけた。
115《鈴木春信 風流艶色真似ゑもん 「 まねへもん 一」 明和6年(1769)頃 中判錦絵》
「艶色真似ゑもん」という十二枚一組の揃物。仙薬を飲んで豆粒のように小さくなったまねえもんが、諸国や遊里に好色修業の旅をする。豆男が忠実男(まめおとこ)すなわち好色の男という意味をもつことと、主人公が小さくてどこにも潜入することができ覗き見趣味を満足させることで人気になった。
この画はシリーズの最初の一枚で、主人公の浮世之介が色道の奥義を得るために諸越笠森山で祈念していると、笠森山の仙女(お仙)と金龍山の藤花女(お藤)が雲に乗って現れ、土団子と不老五倍子の妙薬を授かり、体が小さくなったとされる場面。お藤は、金龍山浅草寺の楊枝屋の看板娘。
119《鈴木春信 「風流江戸八景 両国橋夕照」 明和5年(1768)頃 中判錦絵》
二人の遊女が隅田川東岸から富士に沈む夕日を眺めている。両国橋西岸には火除地としての広小路があり、水茶屋や大小の見世物小屋等が並んでいたという。雲中には「川風も へたゝる国の 名のミにて おなし夕日の わたる長はし」とある。座る遊女の袖には吉原扇屋の紋。
122《鈴木春信 丁子屋内てう山と巡礼 明和5-6年(1768-69)頃 中判錦絵》
浅草寺境内だろうか、箱提灯の前で巡礼の親子が遊女に手を合わせている。丁子屋内てう山は高位の遊女。禿を連れて客のところに移動している途中なのだろう。髷に指した簪を布で覆っている。遊女は吉原から出られない仕組みであったが、火事で仮宅の時に限って自由に外出できた様子が伺える。裾が汚れないように下帯でおはしょりを作っている。
エピローグ 春信を慕う
春信が急逝したのは、明和7年(1770)6月のことでした。明和6、7年頃から春信に倣う画風で錦絵を描いていた浮世絵師たちは、まだまだ春信の美人画を見たいと願う人々の気持ちに応えて、没後数年はその画風を大きく変えることなく描き続けています。
126《鳥居清経 「春信追善」 明和7年(1770)頃 中判錦絵》
「春信追善」の題名どおり、春信の死を悼んで制作された作品で、二人の娘が春信の柱絵「見立琴高」を見ている。着物の柄から、しゃがんでいるがお仙、立っているのがお藤。
128《磯田湖龍斎 「やつし源氏 行幸」 明和7- 安永元年(1770-72)頃 中判錦絵》
春信の《雪中相合傘》を思い出させる作品。磯田湖龍斎は、当初春広と名乗るほど春信に傾倒した。
139《鈴木春重 庭で夕涼みする男女 明和7年(1770)頃 中判錦絵》
署名は「春信画」となっているもが、書体や西洋的な遠近法を用いた背景から、鈴木春重(後の司馬江漢)の作と目されている。江漢は随筆『春波楼筆記』の中の「江漢後悔記」において、春信の偽作を手がけたけれども気がつく者はいなかったと告白している。
143《勝川春章 「古今ノ序 和歌六儀 三つに なずらへうた」 安永(1772-81)初期 中判錦絵》
中国の《詩経》における漢詩表現の六種の形態、風、賦、比、興、雅、頌を紀貫之が転用し、古今和歌集仮名序で和歌の六種の様式として、そえ歌、かぞえ歌、なずらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌とした。雲内に「君に今朝明日のしもの起きていなば 恋しきごとに消えやわたらむ」とある。後朝の別れを描いている。
149《喜多川歌麿 伊達虚無僧姿の男女 寛政6年(1794)頃 大判錦絵》
先行の石川豊信から春信と続き、歌麿が伊達虚無僧姿の二人を描いたもの。画中に「故人鈴木春信図」とある。春信のものより一回り大きな版であるため、二人の背が伸びてすっきりとした印象である。寄り添いつつも、背中合わせで凛とした印象の男女。
150《喜多川歌麿 お藤とおきた 寛政5-6 年(1793-94)頃 大判錦絵》
寛政期美人画の第一人者、歌麿。その時代に寛政三美人の一人と讃えられた難波屋おきたが、既婚となり、眉を剃りお歯黒をした春信時代の評判娘お藤から巻物を授かっている。巻物に美の秘訣が書かれているのだとしたら、私も観てみたい。
以前はのっぺりとした印象のある浮世絵にそれほど興味を持てずにいましたが、昨年春信の作品をきっかけに見立絵とやつし絵について学んでからは浮世絵も面白くなったので、縁のある絵師ということで今回観に行きました。
錦絵、見立絵、やつし絵と見どころ満載の展示で、混雑はさほどないものの、接近できる分だけ細かく観てしまい、後半は足が痛んで辛くなりました。一周するのに約3時間。とても見返す余裕はありませんでした。
一度に大量に見た甲斐があって、最初無表情に見えた春信の描く美人画もそれなりに馴染んでかわいらしく思えてきました。調べたら、蘇州版画の影響があるそうで、明時代の絵に出てくる女が確かに丸顔で手足の小さい印象なのを思い出して合点しました。
ボストン美術館はコレクションのアーカイブが充実しているので、今回は作品ごとにリンクを貼ってみたら、思いの外手間がかかりました。見返す時には便利でしょうが、リンク切れしたら面倒なのであまりやりたくない。
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