室町時代のやまと絵―絵師と作品―(前期)@東京国立博物館 本館
現在、東博本館2階、特別1室と特別2室で、企画展「室町時代のやまと絵―絵師と作品―」が行われています。
室町時代には、水墨を基調とする「漢画(かんが)」とともに、伝統的な「やまと絵」も描かれていました。これまでの技法・主題を継承しつつも、革新的で華やかなやまと絵作品が数多く生み出されたのです。こうしたやまと絵の中には、描いた絵師の名が判明する作例も多く、絵師それぞれの個性の違いや、同じ絵師が描いたとされる作品の中でもスタイルの差異を確認することもできます。
この特集は、室町時代やまと絵師たちの画業をたどるとともに、その豊かな表現世界に光をあてるものです。知られざる室町時代やまと絵の世界をどうぞお楽しみください。
以下、気になったものをメモとして残します(◎は重要文化財)。
《◎浜松図屏風 6曲1双 伝土佐光重筆 室町時代・15世紀 個人蔵》
昭和二十年代後半に見出され、その出現により室町時代のやまと絵再評価のきっかけとなった作例。六曲一双の大画面を一つの連続したフレームとして、雄渾な浜辺の景を描く。下地に掃かれた雲母、金銀の切箔や砂子により、画面全体が淡い光を放つ。
伝統的なやまと絵画題である月次絵の形式を継承したもので、一年の各月に行われる年中行事の模様を描き、公家から庶民に至る各層の月次の風俗が展開される。第1扇は正月の羽根突、毬打、松囃、第2扇は花見、第3・4扇は田植の模様が大々的に描かれる。第5扇は賀茂競馬と衣更、第6扇は犬追物と蹴鞠、第7扇は富士の巻狩、第8扇は春日社頭の祭と雪遊びである。やまと絵の本流からやや離れた絵師の作と思われる。
《山王霊験記絵巻断簡 1幅 伝六角寂済筆 室町時代・15世紀》
近江国日枝山王社の霊験譚を描く絵巻。いずれの断簡も場面の内容は不詳だが、もとは十五巻からなる絵巻から分かれた場面と考えられる。箱書などによると、この絵巻は「融通念仏縁起絵巻」を分担したやまと絵師の一人、六角寂済筆だという。
《◎融通念仏縁起絵巻 巻上 1巻 六角寂済・粟田口隆光・藤原光国・藤原行広・永春筆 室町時代・応永24年(1417) 京都・清凉寺蔵》
仏教用語における融通は、別々のものが融け合って通じ合い、両方相まって完全になることをいう。「一人の念仏が他人の念仏と通じ合い(融通)、より大きな功徳を生み出す」という信仰に従い、集団で念仏を称える「大念佛会」が生まれた。この良忍の事蹟と後の融通念仏の様子を描いたのが《融通念仏縁起絵巻》である。
展示は以下の場面。(六角寂済筆で)46歳の夏、夢に阿弥陀如来が顕現し融通念仏の功徳を説く。(粟田口隆光筆で)良忍は高貴な人に融通念仏を勧め、さらに道俗老少のあらゆる人に教えを説いた。(藤原光国筆で)良忍のもとに壮年の僧が現れ念仏帳に名を連ねるよう求めた。僧は鞍馬寺の毘沙門天であった。天治二年、鞍馬寺に参籠すると毘沙門天が現れ、結縁を望む冥衆たちの名帳を渡された。(藤原行広筆で)融通念仏に結縁した諸天の姿が描かれた。さらに、融通念仏に結縁した諸天が各社を象徴する経管で描かれた。(永春筆で)鳥獣畜生も融通念仏に結縁した。長承元年、良忍は往生した。臨終の際は異香が漂い、楽の音が鳴るなどの往生の奇瑞があった。
京都嵯峨にある清涼寺は奝然が宋より将来した栴檀釈迦如来立像を祀る名刹で、後小松上皇や将軍足利義持をはじめ、女院、親王、高位の公家、武家が詞書を記した「融通念仏縁起絵巻」を所蔵する。さらに、この絵巻には絵師の名前を記した押紙が貼られ、六人もの絵師たちがこの絵巻を分担執筆したことがわかる。室町時代、十五世紀初めのやまと絵師たちの名前とその画業が判明する稀有の作例である。
《◎清水寺縁起絵巻 巻下 1巻 土佐光信・土佐光茂筆 室町時代・永正14年(1517)》
京都・清水寺の創建と本尊千手観音にかかわる縁起を、観音三十三応化身にちなんで、3巻33段にまとめた絵巻。下巻には本尊千手観音のさまざまな奇瑞霊験譚が描かれる。絵は土佐光信筆で、詞書は中御門宣胤、三条西実隆、甘露寺元長の寄合書であることが『宣胤卿記』『守光卿記』『実隆公記』などの記事から知られる。光信晩年の円熟した画風を示す代表作で、伝統的なやまと絵の絵巻の最後を飾る作品。一部に画風の異なる場面があり、光信の子で絵所預を継いだ土佐光茂が描いたとみられている。
上中巻にみるような蝦夷との合戦場面はほかに類例がなく、16世紀はじめころにおいて畿内の人間がイメージした「蝦夷」の姿を伝える記録としても重要。
展示画面は下巻第五段(源平合戦の頃、平家の侍盛久が鎌倉方に捕らえられ処刑される際に、清水の観音から授かった呪法を唱えると太刀が折れて赦免された)から、土佐光茂筆の下巻第六段(身寄りのない女が清水寺に参籠する。その後、武士と出会い幸運を得る)まで。
《◎星光寺縁起絵巻 巻下 1巻 伝土佐光信筆 室町時代・15世紀》
洛中六地蔵のひとつに数えられ、屋根葺地蔵の名で親しまれた星光寺の草創記と、本尊・地蔵菩薩の霊験譚を上下2巻にまとめた絵巻物。『実隆公記』の文明19年(1487)正月27日および2月29日の記事から、土佐光信の描いた「星光寺縁起絵」の詞書を三條西実隆が執筆したことが知られ、現存の2巻をこれに結んで光信の基準作とする通説があったが、現在では光信原本制作直後の良質の模本と見なされている。しかし、画中画に関していえば、従来通り15世紀末の基準作であることにかわりはない。
展示場面は以下のとおり。正応(1288-93)の頃、星光寺の僧浄空が夢の中で古井戸に落ちて地獄に行ってしまうが、地蔵菩薩が閻魔大王に浄空の命乞いをし無事に現世に戻れた。現世に戻った浄空は地蔵に深く感謝し、その後修行を重ね、ついに往生を遂げた。正応二年(1289)七月に星光寺門前の仏師が、一人の僧の依頼で折れた錫杖の修理をした。実は、その杖は星光寺の地蔵の持物だった。
《◎桃井直詮像 1幅 伝土佐光信筆 室町時代・15世紀》
室町時代後期から桃山時代にかけて流行した声曲の一つ、幸若舞の祖と伝えられる桃井直詮の肖像画で、折烏帽子を被り、松喰鶴と亀の文様のある青い直垂を着て異国風の敷物に座している。容貌は高い頬骨と大きめの目が特徴的である。像主の背後には左右から松の枝が張り出している点が珍しい。たんに、像主の背後にそうした障壁画があったものか、あるいは、何か特殊な意味が込められているものかは、明らかでない。
直詮の没後に子の安義が、15世紀後期の宮廷絵所を代表する土佐光信に描かせたものという伝承があるが、画風の点からもうなずける。熟達した迫真的容貌描写が特徴の、室町中~後期における肖像画の名品の一つである。なお、本画像に着賛した海闉梵覚は、朝倉家菩提寺・心月寺の僧である。
《◎牡丹花肖柏像 1幅 室町時代・大永7年(1527)》
牡丹花肖伯(1443~1527)は室町時代の連歌師。著名な連歌師・宗祗(そうぎ)に古今伝授を受け、『新撰莵玖波集(しんせんつくばしゅう)』の撰集も行った。貴族の出で、牡丹と香と酒を愛し、風雅な生活を送ったという。その人柄を偲ばせるようなこの肖像は、肖伯が大永7年4月、数え齢85で没した後に作られた遺像で、その年の7月、建仁寺の常庵龍崇が賛を書いている。賛は900字を越える長文で、肖伯が宗祗に学び、風流な人であったと同時にその道に努めて古典の教養も高かったこと、帝の信頼も厚かったことなどが述べられている。
《清水寺図扇面 1本 伝土佐光久筆 室町時代・16世紀》
金地に金雲をたなびかせた中に、懸崖造で著名な清水の舞台、音羽の滝などをランドマークとする清水寺の景を描く。伝承筆者の土佐光久は土佐光信の子で、別名を千代という。狩野元信に嫁ぎ、狩野派が土佐風をとりいれる契機をつくったとされる。
《◎松図屏風 6曲1隻 伝土佐光信筆 室町時代・16世紀》
画面全体に金箔を張りつめた総金地に、地面や背景などを一切描かず、大小二組の松と岩のみを描く。画中には室町時代の絵所預土佐光信筆との極がある。光信筆とは言い難いものの、その活躍期である16世紀やまと絵絵師の手になるものと思われる。
堅田の落雁等で知られる近江の名所の一つ、堅田の景を描いたもの。土佐光茂筆の大徳寺瑞峯院旧襖絵《堅田図》(静嘉堂文庫美術館蔵)の一部と推定されていたが、別の作例である可能性が高い。ただ、本作も土佐光茂筆である可能性は捨てきれない。
現在、サントリー美術館で狩野元信展が開かれていますが、その狩野派と同じ時代に、やまと絵の流派である土佐派があることを忘れる訳にはいきません。そもそも私が日本画で最も面白く感じているところの、モチーフのデフォルメや金を使った無限空間の演出などはやまと絵に由来するところが多いので、漢画よりもよほど詳しく観たいのですが、これまでやまと絵を軸にした展覧会がなく、もどかしい思いをしていたところです。今回の企画展は実によい機会でした。展示替えも楽しみです。
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