近代の御大礼と宮廷文化(中期)@明治神宮文化館
この日は朝一番に外苑前に向かい、まさに見頃を迎えたイチョウ並木を眺めました。
その後、明治神宮まで歩いて、明治神宮文化館の宝物展示室に向かいました。
しかし、開館時間になっても開かない。なんと、この日は展示替えにつき閉館日。しかも、前期を逃してしまいました。
皆様、お出かけ前に今一度開館情報を確認しましょうね。
日を改めて、出直しました。
明治天皇の御大礼は、明治元年(一八六八)八月二十七日(新暦十月十二日)新式の即位礼が京都御所の紫宸殿で催され、また同四年十一月十七日(新暦十二月二十八日)夜、古式に即った大嘗祭が、初めて東京の皇居で営まれました。
しかも、明治天皇の聖旨により、それ以後も京都で行うことが定められた即位礼と大嘗祭は、大正四年(一九一五)十一月の十日と十四日、及び昭和三年(一九二八)十一月十日と十四日に実施されたのです。
そこで、「明治」改元から百五十年目の今年、明治を中心に大正・昭和も含めて即位礼と大嘗祭に関する重要な資料を精選して、明治神宮文化館宝物展示室で特別展覧会を催します。
《霊鵄形大錦旛》
《頭八咫烏形大錦旛》 《日像纛旛》
《月像纛旛》
御大礼で使われるもので、日像纛旛(にっしょうとうばん)は赤地の瑞雲の錦に金糸で日像、月像纛旛(げっしょうとうばん)は白地の瑞雲の錦に銀糸で月像、頭八咫烏形大錦旛(やたがらすがただいきんばん)は五彩瑞雲の赤地錦の旛に頭八咫烏、霊鵄形大錦旛(れいしがただいきんばん)は五彩瑞雲の白地錦の旛に金鵄が刺繍されている。
《御帳台(みちょうだい)》
《倚子》
明治天皇の御大礼の際に用いられたもの。寝殿造の室礼と調度を記した古文書『類聚雑要抄』の記載を元に縮小復元された。孝明天皇即位に使われた高御座(たかみくら)が安政元年(1854年)の内裏焼失によって失われたことで、例年の節会などに使う帳台を代用した。
御帳台は本来座臥のための施設だったのが、後に権威の象徴となった。中には繧繝縁の畳と茵が置かれる。帳(とばり)は白絹で布筋が紅と紫で鳳凰と桐の模様。その横に展示された黒漆の倚子は、座面に座布団のように茵が置かれ、椅子の両脇に獅子と狛犬が置かれていた。
明治天皇の即位式では、時代の変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指して、1300年前から続く唐風の装束や装飾を払拭した。礼服の代わりとして平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用され、庭に立てる儀仗用の旗の代わりに幣旗という榊がたてられた上、新時代の到来を宣布する目的で、前庭に地球儀が据えられた。
《檜扇》
薄板の檜を要で留めた扇。極彩色の絵が施され、大嘗祭など五節舞では十二単に檜扇を持って舞が奏される。
《御斎服》
明治天皇が新嘗祭で御着用のもの。御斎服は、純白生織りの白い袍で、天皇が神事の際に御着用する最も清浄にして神聖な装束。その形式は、平安朝の頃からそのままの姿とされている。
《黄櫨染の御袍》
天皇が皇室祭儀の恒例臨時を通じて最も多く用いられる御装束。黄櫨染で桐、竹、鳳凰、麒麟の文様が入る。黄櫨染は、櫨の樹皮と蘇芳から染め出される色で中天の太陽を象徴し、絶対禁色とされている。即位式では、孝明天皇までは唐風の袞冕十二章を御着用だったのを、明治天皇以降、黄櫨染の御袍が用いられるようになった。
《明治天皇御即位式図 小原家文庫(皇學館大学佐川記念神道博物館)》
日王式で行われた、明治天皇の紫宸殿における即位式の様子を鳥瞰して描いたもの。旙類が真榊、香炉が地球儀、高御座が御帳台になった。
《挿華》
天皇が御即位された大嘗祭では、その時々の生花を髪に挿された古来の風習から、大正以降は銀製の挿華が列席者に配られた。大正大礼挿華は京都御所の桜と橘、昭和・平成の大礼挿華は京都御所の梅・竹。
《魚袋》
魚袋(ぎょたい)は、平安時代以来、束帯装束に使われる装飾品。金魚袋は親王および三位以上、銀魚袋は四位・五位の者が使用する。
《五節舞装束》
大正4年(1915)11月16日、大正天皇御大礼大饗の儀が二条離宮で行われ、萩原種子(豊国神社の社務で子爵萩原員種の三女)らの五節舞奉仕が行われた。展示は萩原種子着用のもの。五節舞は、天武天皇の時代、吉野に天女が現れて袖を五度振って舞ったとの伝説に基づき、大嘗祭や新嘗祭で4、5人の舞姫によって舞われる。明治天皇の大嘗祭では五節舞は行われず、大正の大礼で復興された。以降は、大嘗祭後の大饗でのみ行われている。
こじんまりとした展示なので、展示室内にいたのは一時間ほどだったと思います。
再来年に天皇の譲位と御大礼が行われる予定になっているので、過去の御大礼がどのようなものだったのかを知る良い機会になりました。後期に再訪予定です。
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