ジャンル別展示@東京国立博物館 本館
桜のバッジを無事に受け取った後、本館1階のジャンル別展示も観ました。
以下、いつものように気になった作品についてメモを残します(◉は国宝、◎は重要文化財、◯は重要美術品)。
本館 11室 彫刻
《雲中供養菩薩像 1躯 京都・平等院伝来 平安時代・天喜元年(1053)》
京都府宇治市にある著名な平等院鳳凰堂の堂内壁面にかけられ、阿弥陀如来のいる極楽浄土を演出していた菩薩群のうちの1体。平安時代を代表する仏師定朝の工房で制作されたとみられる。丸顔で優しい顔立ちや穏やかな衣の表現は「定朝様」と呼ばれ、全国各地に普及した。
法衣のドレープがすごい上に、その裾には雲の描写が加わって、首下だけなら、優美なドレスを着た少女のようにも見えます*1。
持ち物を失っているが、42本の手、頭上面、そして台座、光背など、ほとんど造られた当初のものが残る点が貴重。角張って扁平な顔、衣の襞の曲線の形に特徴があり、14世紀中ごろに中国風を取り入れた院派仏師(名前に院の字のつくことが多い一派)の作とみられる。
《四天王立像 4躯 鎌倉時代・14世紀 文化庁蔵》
鎌倉初期に再興された東大寺大仏殿の像を典拠としていると推測される。いわゆる大仏殿様四天王像の一例。いま確認できないが像内に元徳3年の銘があるといい、鎌倉末期の基準作として貴重である。多聞天が兜をつけるのは、この時期にあらわれた変化形式。
本館 12室 漆工
《◎芦舟蒔絵硯箱 1合 伝本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀》
金の薄肉高蒔絵と平蒔絵で波や芦、千鳥を描き、鉛の板で舟を手前に大きく表わす。芦に舟の図柄は平安時代の料紙装飾にもみられる当時流行の意匠であり、光悦の蒔絵には王朝時代の美術や文学に主題を求めた例が多い。厚い鉛板を大胆に使うところも、光悦作品の特色の一つである。
波に揺れる舟は鉛で光悦らしい大胆さで、一方、千鳥はどこまでも愛らしく描いている。
《◎蓬莱山蒔絵袈裟箱 1合 法隆寺献納宝物 平安時代・12世紀》
表面は全体を不整形な粉を淡く蒔いた平塵として、箱の外側には松喰鶴、内側には蓬莱山を金と銀の研出蒔絵で描いている。箱の蓋のような形をしているが、内側に主文様があり、単独で盆のようにして、袈裟を入れて運ぶためなどに使用されたと考えられる。
『山海経』に「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されている。本作の蓬莱山は、海中を泳ぐ強大な亀の背中に立つ高さのある岩山として描かれている。険しい崖に生えているのは、かぐや姫が要求した玉の枝かもしれない。それが遠目にドクロのようにも見えて、ぎょっとする。
図柄と文字を組み合わせて一つのテーマを暗示する、葦手絵の手法で飾られた硯箱。画中には「君・賀」の二文字が隠されており、『古今和歌集』巻七の賀歌「しおのやま さしでの磯に住む千鳥 君が御代をば八千代とぞなく」による意匠であることを示している。
塩の山も差出の磯も山梨県にある地名。海なし県に塩とか磯とかつくのが不思議です。塩の山は、まるで古墳か海に浮かぶ小島のように、平らなところに独立してある小山でした。四方から見える山で「しほうのやま」が鈍ったものだとか。「差出の磯」の枕詞。指出の磯は、笛吹川中流の景勝地で、笛吹川右岸に突出した丘陵と断崖が、まるで海辺の磯のように見えることから名付けられたという。「ちどり」といえばこの地を差すほど、多くの和歌が詠まれた。
《左義長蒔絵硯箱 1合 伝本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀》
左義長とは宮中で古くから行われていた火祭のことである。この硯箱の図柄は、その祭を象徴する光景をクローズアップして捉えたもの。金の平蒔絵に金・銀・錫の金貝などを大胆に用いた、光悦作と伝えられる漆芸独特の表現をみることができる。
左義長は、お焚き上げ、どんと焼きとも呼ばれる風習として今に残る。元は打毬に使われる毬杖三本を立てて結び(三毬杖)、その上に扇子や短冊を添えて陰陽師が焼いて吉兆を占う宮中行事だった。
蓋裏にも同じくらい大胆な構図で扇子と三毬杖が描かれている。
本館 15室 歴史の記録
《◎九州沿海図(大図) 第六 1幅 伊能忠敬作 江戸時代・19世紀》
宮崎県延岡、日向、問川を含む地域の図。五ヶ瀬川の河口付近と財光寺村の砂丘海岸はともに松林が描かれる。五ヶ瀬川の河口はいくつかの河川を集め、方財島に塞がれて広い干潟となり中洲には田畑が見られる。城下町延岡や港町網島町は家並みも大きく描く。
《◎中山道分間延絵図 板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣 1巻 江戸時代・文化3年(1806)》
「五海道其外分間延絵図並見取絵図」は、江戸幕府が東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道及びしの主要な脇街道の実態を把握するためにに作成した絵図。本図は中山道起点の板橋宿から鴻巣までの道中を描いたものである。
本館 18室 近代の美術
山の存在そのものを主題として、点景人物も山道もなく、あくまで写実的態度によって描かれた風景表現である。伝統的な描法からも解放された、より洋画的な表現に近づいた作品といえる。本作にみるように御舟は、日本画において写実表現の可能性を追及した。
《洛北修学院村》の2年後の、まだ群青中毒時代。《洛北修学院村》で遠景の山として描かれた比叡山を、ほぼ同じ向きの京都市内側から、今度はその山を中心に据えて描いた。後光が差すように描かれていることから、夜明けの風景であろう。逆光になった比叡山が目前に押し寄せ、倒れかかってくるような錯覚にさえ陥る。
ガラスの映り込みが激しくて斜めからしか撮れませんでした。
《◎熱国之巻(朝之巻) 1巻 今村紫紅筆 大正3年(1914)》
紫紅は、自由な発想による新しい日本画の創出をめざしたが、本絵巻によって、単純化されたモチーフや明瞭な色彩と金砂子による光の表現で、日本画の表現方法がもつ可能性をふくらませたといえる。シンガポールやペナンの水上生活者に取材したとされている。
明るい色彩が印象に残る。
《白磁梅枝菊花額 1面 光武彦七作 明治10年(1877)頃》
光武彦七は鍋島藩窯の御細工屋工人で、明治2年に藩命により、服部杏圃から西洋の陶技を学び、三代高橋道八から色絵技法を学ぶ。明治10年、鍋島藩窯の再興を図り、精巧社を設立。第二回内国博に額装で出品のこの作品は精緻な技で梅樹を作りあげたもの。
西村荘一郎は欧米で開催された万国博覧会や国内の勧業博覧会など、内外の博覧会に出品して、受賞をはたしている。作品が皇室に買い上げられ、明治天皇の御前に彫技を披露するなど、独特の木画表現は当時好評を博した。展示中の箱や巻煙草立は、明治9年のフィラデルフィア万国博覧会に出品された。
ガラス越しでは見づらいが、蓋には芦に止まるミソサザイが水辺のカニを狙う様が、側面にはしなやかに泳ぐ小魚の群れが木材の象嵌で描かれている。
《◎褐釉蟹貼付台付鉢 1口 初代宮川香山作 明治14年(1881)》
初代宮川香山は海外輸出で早くから功績をあげ、明治29年(1896)に帝室技芸員となる。卓越した技術で写実的な立体装飾を伴う作品を多く作り、本作では荒々しく力強い造形をした深鉢に本物さながらの二匹の蟹が付けられている。明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会出品作。
何度見ても見飽きない。鉢だけでも相当大胆な造形で、その上、なぜ蟹を貼り付けたと作者に問いたくなる作品。観る度に面白く思います。
目も首も脚も痛くなって、ようやく東博を出ました。東博内も混んでいたけれど、敷地外はもっと混んでいるわけで。上野公園のメインストリートは通勤ラッシュ並でした。
喉が渇いていましたが、休憩どころじゃありません。この後、ジョギングで南下する予定が、秋葉原の万世橋を超えるまでは歩くしかありませんでした。東京って人が多いのねえ。
*1:走るパタリロを連想したのは内緒です
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