日本美術の流れ@東京国立博物館 本館
霧雨の東京国立博物館です。
あまりに暑いよりは、日差しがない分雨の方が救われます。
- 本館 3室 仏教の美術―平安~室町
- 本館 3室 宮廷の美術―平安~室町
- 本館 3室 禅と水墨画―鎌倉~室町
- 本館 7室 屏風と襖絵―安土桃山~江戸
- 本館 8室 書画の展開―安土桃山~江戸
- 本館 10室 浮世絵と衣装―江戸(浮世絵)
いつものように気になったものについてメモを残します(◉は国宝、◎は重要文化財、◯は重要美術品)。
本館 3室 仏教の美術―平安~室町
《◎阿弥陀如来像 1幅 鎌倉時代・14世紀 福島・いわき市蔵》
鎌倉時代、死後の極楽浄土を願う浄土信仰が広く流行し、阿弥陀如来が臨終の者を迎えに来る図が多く制作された。この図は、往生者を乗せる蓮台を差し出す観音菩薩と合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀如来を、2mを超える画面に描いた異例の大作である
雲に乗った阿弥陀三尊を描いた来迎図。観世音菩薩が手にする蓮台は来迎者を乗せるもの。
二河白道は中国唐時代の浄土教家・善導が『観無量寿経疏』に著した極楽浄土の譬え話。娑婆から極楽へ向かおうとする往生者を火の河(憎)と水の河(愛)がさえぎるが、細く白い道(清浄な信仰心)が彼を往生へと導く。本図はこの話を絵画化した現存最古本で、浄土宗に伝来する。
中央に細く一本の白い線。その左右に赤い火と青い水の渦巻く河。河を挟んで画面上に阿弥陀三尊の住む極楽浄土、下に娑婆世界が描かれている。白道の極楽浄土側で阿弥陀来迎が行人を向かえている。娑婆世界側の入り口に釈迦、その周りに僧や武士や動物達。画面下に貴族や武士の暮らしが描かれている。
《往生要集絵巻 巻第5 1巻(6巻のうち) 室町時代・15世紀 個人蔵》
平安時代半ば頃、恵心僧都源信が記した『往生要集』に基づく、絵巻としては現存最古の作例。『往生要集』は極楽浄土の方法や六道の様相を説くもので、浄土の教えが広まるきっかけとなった書物。絹に描く点や、絵の後に詞を配するなど、通常の絵巻とは異なる構成である
最初は『往生要集』第二欣求浄土、聖衆来迎楽の場面。
第一、聖衆来迎楽者、凡悪業人命尽時、風火先去故、動熱多苦、善行人命尽時、地水先去故、緩慢無苦、何況念仏功積、運心年深之者、臨命終時、大喜自生、所以然者、弥陀如来以本願故、与諸菩薩百千比丘衆、放大光明、晧然在目前、時大悲観世音、申百福荘厳手、擎宝蓮台、至行者前、大勢至菩薩、与無量聖衆、同時讃歎、授手引接、是時行者、目自見之、心中歓喜、身心安楽、如入禅定、当知、草庵瞑目之間、便是蓮台跏結之程、即従弥陀仏後、在菩薩衆中、一念之頃、得生西方極楽世界
(要約)第一に、悪者は死ぬ時に苦しみ、善者は臨終が穏やかである。ましてや、念仏の功徳を積み信心を持った念仏行者は喜びの中で臨終を迎える。なぜなら、阿弥陀如来が目の前に現れ、大勢の菩薩に褒め称えられて迎えられるからである。まさに、庵で目を閉じる時が蓮台に座る時で、菩薩の仲間に加わり、極楽浄土に生まれ変わり時である。
《◉三宝絵詞 上巻 1冊(3冊のうち) 鎌倉時代・文永10年(1273)》
『三宝絵詞』は、永観2年(984)に源為憲が編集した仏教説話集で、本来の書名は「三宝絵」という。冷泉天皇の第2皇女尊子内親王のために仏教を平易に説明したもので、仏・法・僧の三宝を上中下の3巻とした。粘葉装の冊子本で、鎌倉時代の完本として貴重である。
上巻は釈迦の過去世を伝える本生話、中巻は聖徳太子以下18人の伝記、下巻は仏教行事の解説と説話を記し、各巻に序をもつ。絵の部分は失われ、詞書だけが残っている。
本館 3室 宮廷の美術―平安~室町
巻物の前に行列が出来ていました。
室町時代以降流行した御伽草紙と呼ばれる短編小説の一種。鼠と人間の娘が結婚するという奇想天外な物語、親しみやすい画面から、江戸時代以降にも多くの作例を生んだ。詞書とともに、画中に記された登場人物のセリフなどにより物語を展開させている。
畜生道から逃れるために人間の娘と結婚したいと望んだネズミの権頭が、良縁を願って清水寺に参詣した際、美しい姫と出会い結婚を果たすが、怪しんだ姫に正体を見破られて逃げられる。傷心のネズミは鼠盛寺で出家し、諸国行脚に出るという話。
「権頭と姫の婚礼」の場面
ネズミ一匹一匹に名前がついていたり、画中にセリフが入っていたりと漫画のように親しめる絵巻きです。
本館 3室 禅と水墨画―鎌倉~室町
《◎祖師図(五祖送六祖渡江・徳山托鉢) 1幅 狩野元信筆 旧大仙院方丈障壁画 室町時代・16世紀》
《◎祖師図(香厳撃竹) 1幅 狩野元信筆 旧大仙院方丈障壁画 室町時代・16世紀》
本図はもと大仙院、衣鉢の間の障壁画、禅宗祖師図(現在は全6幅)の一部。大仙院は古嶽宗亙が永正10年(1513)に開創した塔頭。祖師図には弘忍、慧能、香厳智閑、霊雲志勤、潙山霊祐、三平義忠、石鞏慧蔵、徳山宣鑑ら、唐代の高僧の事跡が描かれている。
右幅は掃除の際に瓦の欠片が竹に当たって響く音を聞き、唐時代の禅僧、香厳智閑が大悟する場面。左幅は五祖送六祖渡江・徳山托鉢の話を描いたもの。
狩野正信は、15世紀末を中心に活躍した職業画家。16世紀から19世紀まで日本の画壇に君臨した狩野派の初代にあたる。本図は正信の作と伝えられる作品で、中国・南宋の宮廷画家様式による山水画に学んだ正信とその子、元信の山水画に近いところがある。
本館 7室 屏風と襖絵―安土桃山~江戸
《山水図屏風 6曲1隻 海北友松筆 安土桃山時代・慶長7年(1602)》
浅井長政の重臣海北綱親の子である友松は、独力で自らの画境を切り開いた。武人らしく気迫のこもった鋭い表現で水墨画を描いている。本屏風にみられるダイナミックな画面構成や球状、円筒状に表わす独特な形態感覚で対象を捉える表現が友松の特徴といえる。
岩や樹木、楼閣や停泊する舟など雪舟画風をみせるが、整理整形し余白を増大させた画面は、次世代探幽の山水図につながる。興以は、桃山期狩野派の棟梁光信の門人で、光信・孝信(探幽の父)兄弟亡き後、やがて実質的な棟梁となる探幽を門人筋として支えた。
探幽の後見役である狩野興以の「山水図屏風」の構図に近く、各隻を左右反転すると、右隻は興以画の左隻に、左隻は興以画の右隻にちかいものとなる。広く余白を設け、両隻で水平方向の広がりと垂直方向の高さの対比をつくる山水構成は、探幽ならではの工夫だ。
左右反転すると興以画の構成に近くなるということなので、画像を加工して左右反転したものが、こちら。
確かに。
本館 8室 書画の展開―安土桃山~江戸
本館8室の定点撮影。
《秋草白菊図屏風 6曲1隻 筆者不詳 江戸時代・17世紀》
ススキと萩の叢のなかに白菊が清浄雅に咲く。秋草の葉の緑と花弁の白が画面に華やかさを与えている。秋草図は江戸時代初め、京都で活躍した俵屋宗達の絵画工房で数多く描かれた。以来、人々に広く求められ、本作のような典雅な屏風絵がしばしば描かれた。
ススキと白菊が大胆に描かれている屏風。白菊の花びらが胡粉で盛り上がっている。変色しているが背景には銀の切箔が散らされていて、秋の冷たい空気感が伝わってくるように思える。
《◎山中結廬図 1幅 浦上玉堂筆 江戸時代・寛政4年(1792)》
玉堂は49歳で武士の勤めを辞め、翌年、2人の息子春琴・秋琴とともに備中(岡山県)鴨方藩を脱藩した。遺品の大半は脱藩後だが、この図は数少ない士官中の、しかも玉堂としては珍しく絹に描いた作品で、画風形成途上の48歳の基準作として貴重である。
明るい色彩で描かれた山中には所々に家々が見える。高士が橋を渡って奥深い山に向かう描かれている。
《花鳥図屏風 6曲1双 浦上春琴筆 江戸時代・文政6年(1823)》
春琴は、浦上玉堂の長男。秋琴は弟にあたる。幼いころから父に絵を学んだ。16歳のとき備中(岡山県)鴨方藩を父に従って脱藩し、諸国を遊歴ののち京都に住んだ。45歳で描いたこの花鳥図屏風にみるように、父玉堂とは対照的に精緻な画風の作品を残した。
《帰去来図 1幅 渡辺玄対筆 江戸時代・18~19世紀》
南蘋画。中国、宋の詩人陶淵明の詩『帰去来の辞』に因んで描かれたもの。帰去来(かえりなんいざ)とは故郷に帰るために或る地を離れることをいう。
《山水図 1幅 高久靄崖筆 江戸時代・天保13年(1842)》
高久靄崖は江戸後期の文人画家。池大雅を私淑して文人画を独学した。椿椿山と深い交流があり似絵が残る。
米法山水で描かれた山々に緑のざわめきが感じられ、つい先日原田マホ筆『たゆたえども沈まず』を読んだばかりだったので、ゴッホの《星月夜》のうねる星空を思い出したのでした。
《月ヶ瀬探梅図巻 巻下 1巻 金井烏洲筆 江戸時代・天保4年(1833)》
金井烏洲は上野(群馬県)島村の生まれ。関東南画界の主要な画家である。この画巻は西遊の際に、奈良県添上郡の梅の名所月ヶ瀬梅渓の景観を2巻の巻物に描いたもの。頼山陽、浦上春琴、篠崎小竹、小石元瑞らが題跋を寄せる。烏洲の基準作かつ代表作である。
緻密な米点で描かれた月ヶ瀬の梅林が見事です。
《菊花図 1幅 池大雅筆 江戸時代・18世紀》
軽やかな筆はこびで描かれた菊の花。茎と葉にグラデーションを効かせた濃い墨を用いて生動感を生み、淡い墨の線をきびきびと引いて花弁の柔らかさを表わしている。あっという間に出来上がった画であろうが、対象を見事にとらえている。大雅の墨技に脱帽。
本館 10室 浮世絵と衣装―江戸(浮世絵)
《小野小町 1枚 鈴木春信筆 江戸時代・18世紀》
浮草の生える水辺で団扇を片手に涼を取る女が、小野小町をやつして描かれている。雲形に「わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ」と書かれている。歌は三河国に下る文屋康秀から戯れに旅路に誘われたことの返事。
《勝景奇覧・木曽摺針峠 1枚 葛飾北斎筆 江戸時代・19世紀》
団扇に貼って使うための絵。「勝景奇覧」シリーズは日本各地の風景を描いた8図が確認されており、通常の彩色と藍を主とした作品の2種類がある。摺鉢峠には木曽街道の宿場があり、眼下に琵琶湖が広がっていた。歌川広重も同じ場所からの図を残している。
摺鉢峠は滋賀県彦根市北部にある峠で、旧中山道の鳥居本宿の北東にあった難所であるが、中山道一の絶景が望めたことで多くの旅人が立ち寄った。
《勝景奇覧・相州袖ヶ浦 1枚 葛飾北斎筆 江戸時代・19世紀》
錦絵の勝景奇覧。相州袖ケ浦は現在の小田原市の海浜あたり。雪の積もる晴れた日の情景で、画面右に屹立する崖のその奥に富士山が見える。
《見立・お七 1枚 歌川国貞(三代豊国)筆 江戸時代・安政2年(1855)》
梯子に上って花火を眺める女を八百屋お七に見立てたもの。
《当世流行定 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政5年(1858)》
当時の流行を描いた団扇絵の揃物。ひらがなと数字が組み合わされた紙切れを何枚も手にしている。カルタのようなものか、占いか、はたまたクジか。駒絵には、女と連れ立った男が提灯にぶつかっている様子が描かれている。
《江戸旧跡つくし・隅田川木母寺梅若の由来 1枚 歌川広重筆 江戸時代・19世紀》
川のほとりで笹を担いで彷徨う狂女を子供が囃し立てている。川には浅瀬を縫って進む渡し船、空に都鳥が舞う。
『江戸旧跡つくし』は江戸の旧跡を紹介する揃物。本画は能や歌舞伎で演じられる『隅田川』の一場面を描いている。『隅田川』は逸れた子供を探す狂女の物語で、現在の墨田区にある木母寺の梅若伝説が基になっている。
天明~天保年間(1781~1844)にかけて活動して浮世絵師。写実的な役者絵で人気を博した勝川春章の門人。肉筆の美人画を主として、錦絵や版本の挿絵などの作品が残っている。
花柄の小紋が入った赤い着物の上に紗を重ねた女が手鏡を覗き込みながら髪を整えている後ろ姿を描いている。足元には透かしのある団扇、煙管、手紙が置いてある。鏡に映る女の春暁の代表作の一つ。
江戸時代後期の浮世絵師で葛飾北斎の門人。摺物を中心に、狂歌絵本、読本挿絵、肉筆画、錦絵の作品が残っている。特に、遠近感と明暗の表現を強調した洋風風景画で知られる。
右手に団扇を持ち、S字を描くように上半身を傾け、左手で髪を整える遊女の立ち姿を描いたもの。細い身体に大振りな帯と長い裾。着物から出た首筋、胸元や足首の白さが目を引く。黄色の矢絣に濃い紫の帯がかっこよい。内側の水色の着物がドレスのドレープのようだし、帯の模様もどこか洋風で華やかです。
《見立邯鄲の夢 1枚 鈴木春信筆 江戸時代・18世紀》
「邯鄲の夢」は、人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉。団扇を手にうたた寝をする女。輿に乗って嫁入りする姿が夢として空摺りで描かれている。その前には、豇豆のある振袖を着た少女が茶請けの菓子を手にしてしている。
《郭中美人競・松葉屋内染之助 1枚 鳥高斎栄昌筆 江戸時代・18世紀》
寛政年間(1789~1801)に活動した浮世絵師。すらりとした体躯の気品ある美人画で人気を博した鳥文斎栄之の門人。歌麿風や師である栄之風の美人画を描いた。栄之の弟子の中でも特に作画量が多いことが特筆される。
吉原の有名な遊女屋である松葉屋の人気遊女、染の助を描いたもの。丸に違い鷹の羽紋が入った団扇を右手に持ち、高く結い上げた日本髪に大きな櫛や簪を差しでいる。きりっとした眉とアイラインの入った目。鼻筋が通り小鼻は小さい。お歯黒のおちょぼ口。栄昌の描く美人は現代の感覚でも美人。
《茶碗と団扇を持つ二美人 1枚 喜多川歌麿筆 江戸時代・18世紀》
浮世絵黄金期と呼ばれる寛政期(1789~1801)を代表する浮世絵師で、市井の美人から吉原の遊女までさまざまな美人の姿態を描いた。大首絵から続物の大画面まであらゆる形式を巧みにこなしたが、晩年筆禍事件により失意の中で没した。
《江戸三美人・富本豊雛,難波屋おきた,高しまおひさ 1枚 喜多川歌麿筆 江戸時代・18世紀》
江戸で有名だった3人の美人を描いた作品。この3人にはそれぞれを示すモチーフが決まっていた。富本豊雛は桜草の紋、難波屋おきたは桐紋、そして高しまおひさは三つ柏紋である。豊雛は着物に桜草の模様が、他の2人には簪にそれぞれの紋が描きこまれている。
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