伊勢神宮 内宮:お伊勢詣 その3

2022年4月19日

早朝、伊勢市駅から三重交通のバスに20分揺られて、内宮前バス停で降りました。いよいよ内宮に詣でます。

 

皇大神宮の案内板。
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皇大神宮(内宮)

御祭神 天照大御神
御鎮座 垂仁天皇二十六年

 天照大御神は皇室の御祖神であり 歴代天皇が厚くご崇敬になられています また私たちの総氏神でもあります
 約二千年前の崇神天皇の御代に皇居をお出になり 各地をめぐられたのち この五十鈴川のほとりにお鎮まりになりました
 二十年に一度神殿をお建て替えする式年遷宮は千三百年余り続けられ 平成二十五年十月二日に第六十二回式年遷宮が行われました

 

宇治橋外鳥居。
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外宮旧正殿の棟持柱が用いられる。鳥居として20年使われた後、桑名の七里の渡し場の鳥居となる。

 

宇治橋の別名を御裳濯橋(みもすそばし)といい、五十鈴川の別名が御裳川であるところから来ている。年間400万人と言われる参拝客によって、厚さ15センチの橋板が、20年の間に6センチほど摩耗するとか。塵も積もれば山となり、雨垂れが石を穿ち、靴が宇治橋を踏み抜くと。

 

ここから、外宮とは違って右側通行です。 

宇治橋の先にも伊勢鳥居があります。境内に入ります。

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玉砂利を鳴らしながら神苑を進みます。
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江戸時代にはこの辺にも民家があったそうで、この先に架かる橋が火除橋です。

 寛政9年(1797年)発行の『伊勢参宮名所図会 巻五』を見ると境内に多くの民家があったことがわかります。
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左端中程に宇治川の鳥居、そこから右下に直線的に伸びているのが、現在の神苑のある参道です。鳥居まで民家が密集しているのがはっきりとわかります。右下には御手洗場が描かれていて、川の名前が御裳川となっています。

 

手水舎を使った後、一之鳥居をくぐります。
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伊勢鳥居です。柱に玉串、両脇に木灯籠があります。なるほど、ここからが神域ということですね。

 

五十鈴川御手洗場。
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倭姫命が御裳の裾を濯いだとされる場所。神域にある本来の禊場でしょう。水の流れが心地よい。

 

御手洗場に着くまで、川の流れを逆に感じていました。内宮境内は最も北にある宇治橋からエントリーして南下し、ノースアップの脳内地図と境内図とに齟齬が生じていたのです。東京在住の私の中に、川は北から南に流れるといった思い込みがあるのも多少影響していそう。

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ついでに言うと、どのお社も南向きに建っていることから、必ず参道を回り込むようにして参拝場所に向かうのが、まどろこしい……。

 

御手洗場のすぐ近くにあるのが瀧祭神(たきまつりのかみ)。
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内宮の所管社のひとつで、御祭神は瀧祭大神で五十鈴川の神様です。社殿がなく御垣と御門のみで、鳥居もありません。社殿がないのは、御神体が五十鈴川そのものだからとも考えられます。
外宮の多賀宮の御門にも通じる、古い形に思えました。

 

二之鳥居をくぐった後、右手に風日祈宮橋があります。橋の両端に鳥居がありますが、宇治橋と同じく玉串がありません。
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つまり、内宮の神域から一旦出ることになるので、振り返ってお辞儀をしてから橋を渡ります。風日祈宮橋の架かっている島路川が古来五十鈴川と呼ばれていた川で、内宮正殿の前を流れます。

 

風日祈宮橋を渡った先にあるのが、風日祈宮(かざひのみのみや)。
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手前は新御敷地です。この遷宮用の空き地にぽつんとある小さな小屋は、正殿の心御柱(しんのみはしら)の覆屋(おおいや)である。次の遷宮の時には、覆屋のある位置に御正殿の中心がくるというわけです。

内宮の別宮、風日祈宮です。
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御祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)で、共に伊弉冉尊と伊弉諾尊の間に生まれた風の神様です。
伊勢鳥居が立ち、板垣に覆われた神明造の本殿に切妻の縦拝殿がついています。

 

風日祈宮橋を戻ると絢爛な入母屋造の前に出ます。
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神楽殿・御饌殿・神札授与所が並んでいます。

 

右に折れて参道を進み、いよいよ皇大神宮正宮です。
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石階段を上がった高台に正殿が鎮座する。撮影は階段下まで。

御祭神は御正殿に天照大御神と、相殿で天手力男神、栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)。さらに、御垣内の北西端に正宮を守護する興玉神(猿田彦命)、宮比神(猿田彦命の妻である天鈿女命)が、板垣南御門の外で石階段の東側に、神庭を守護する屋乃波比伎神が祀られている。

 

外宮同様、内宮の参拝も階段を登ってすぐにある、外玉垣南御門に設えられた御帳の前にて「二拝二拍手一拝」で参拝します。
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外宮では正殿よりも手前にある東西の宝殿が、内宮では正殿の背後にあり、配置が異なっています。これは、中世に百二十年に及ぶ遷宮中絶期に正殿が朽ち消えてしまった時に、東西の宝殿がその仮殿として使われたことによるもので、途絶えていた遷宮が復活した天正十三年の遷宮の際には、正殿を中心に左右に宝殿を一列に配置したのだとか。現実問題として、古い時代の瑞垣内の配置がわからなくなったということなんでしょう。なお、御垣が四重になったのは明治二年の遷宮で、江戸時代のおかげ参りの時代には中重まで参拝人が自由に入っていたようです。

上でも参照した寛政9年(1797年)発行の『伊勢参宮名所図会 巻五』にも、そういう様子が詳しく描かれています。
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この時代、二礼二拍手一礼ではなく、ひざまずいて参拝している。正殿前を流れる五十鈴川(現、島路川)の対岸に、僧尼拝所がある。中世以降は神宮が仏教との接近を忌避されたことにより、明治時代までは僧侶の姿で正宮に接近することは許されなかった。

 

御贄調舎(みにえちょうしゃ)と藩塀(ばんぺい)。
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御贄調舎は祭事に、御饌都神である豊受大御神をお迎えし、御饌の代表としてアワビを調理する儀式が行われる。

蕃塀は参道上で拝殿の前に置く短い塀のことで、三河地方に特徴的にみられるものらしい。上の『伊勢参宮名所図会』には描かれていません。そんなに古くないタイミングで流行ったんでしょう。お江戸の天水鉢みたいなものだと解釈しておきます。

 

 

『日本書紀』によると垂仁天皇26年(紀元前4年)に倭姫命が宇治に巡行した際、天照大神が「この地に留まりたい」としたため磯宮として創設されたのが皇大神宮の始まりとされる。645年の大化の改新以降に磯宮は皇大神宮に改称され、皇室の祖先神として位置付けられるようになった。壬申の乱の祈願で勝利をもたらしたと、天武天皇が式年遷宮を定め、持統天皇4年(690年)に一回目の遷宮が行われた。
遷宮が中断される室町時代後期には、伊勢に内宮と外宮それぞれの神役人が優位性を争って宇治山田合戦が起こり、敗北した山田方榎倉武則が外宮正殿に火を放ち切腹した。さらに、外宮炎上にショックを受け、内宮側の一禰宜だった荒木田氏経が食を断って死去するという異常事態が起きた。
江戸期には遷宮が安定して繰り返されて次第に伝統が回復し、明治二年の遷宮で板垣が設定され、以降尊厳性が高められていくことになったそうです。

伊勢の歴史を紐解くと、なんともハードな話がいくつも出てきます。それだけ昔から重要な土地だったということなのですが。

 

 

正殿の左脇の道を進む、御稲御倉がある。
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内宮所管社のひとつで、神宮神田で収穫された稲を収める御倉である。御祭神は御稲御倉神。宇迦之御魂神(稲荷神)と同一とされている。高床の構造がよくわかるため、御正殿と同じ唯一神明造を細部まで見ることができる場所として名高い。

外幣殿。
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古神宝を収める倉。なお、外宮は御垣内にある。

 

荒祭宮です。正宮の後方(北)に位置する高台にある。創建は内宮正殿と同じ頃とされている。
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御祭神は天照大御神荒御魂です。いくつかの記録に荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫、八十禍津日神を記しているものがある。

外宮の多賀宮と同じく鳥居がない。社殿は平入の神明造で切妻の拝殿を持つ。

新御敷地から拝殿を眺める。
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玉垣は白木ですき間が多く、雨覆のある御門がついている。

 多賀宮と違って、『伊勢参宮名所図会 巻五』に鳥居は描かれていません。
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瑞垣の御門の前で参拝しています。御門には神垂のような垂れ下がりが確認できます。

 

表参道まで戻って 神楽殿。銅板葺きの入母屋造。
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大千鳥破風に比翼唐破風。

こちらは御饌殿。
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屋根がピンピン反って派手です。ここだけ尾張っぽい(偏見

 

御廐。
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内宮の神馬は三頭いて、共にアングロアラブ種の国春(くにはる)と笑智(えみとも)。去年新たに草新(くさしん)が加わった。国春と草新は鹿毛、笑智は芦毛の馬である。

 

手水舎の横に、小さな池がありました。
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大山祇神社と子安神社にもお詣りしましたが、社殿修繕工事中だったために仮殿での参拝となりました。
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どちらも内宮の所管社で、大山祇神社の御祭神は大山祇神で神路山の守護神として、子安神社の御祭神は木花咲耶姫で安産と子授けの神さまとして祀られている。

 

境内一周して宇治橋に戻ってきました。宇治橋内鳥居です。
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内側の鳥居は、内宮の旧正殿の棟持柱が用いられ、鳥居として20年使われた後、鈴鹿峠ふもとにある関の追分(東の追分)の鳥居となる。

 

宇治橋の南側には、流れてくる木々などが橋梁に衝突するのを防ぐための木除杭が設けられています。遠くに五十鈴川御手洗場も見えています。
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流れが穏やかなので分かりづらいと思いますが、上流を向いて撮っています。最後の最後まで方角に慣れないままでした。

宇治橋にある16個の擬宝珠に一個だけ、特別なものがあります。
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「天照皇太神宮 御裳濯川 御橋 元和五己未年 三月」の刻印がある擬宝珠には、宇治橋の対面に鎮座する饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)の萬度麻(神札)が奉納されている。
なお、神宮では仏教的な名称を嫌って葱花型金物(そうかがたかなもの)と呼ぶそうです。

 

参考までに、伊勢神宮に縁の深い神様の系譜をまとめたもの。
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