運慶展@東京国立博物館 平成館
都美のボストン美術館を出た後は東博の運慶展へ。平日に入場制限がかかるようになったと小耳に挟み、出かけるのが億劫になるくらいの行列になって後悔するくらいなら、今行こうと。
人の流れが明らかに平成館に向いています。
エントランスにテントが用意されているのは、今後の行列対策でしょうか。
かなりの賑わいです。
平成館でこれだから、他の美術館でやったら、すさまじいことになったんだろうなと思います。
日本で最も著名な仏師・運慶。卓越した造形力で生きているかのような現実感に富んだ仏像を生み出し、輝かしい彫刻の時代をリードしました。本展は、運慶とゆかりの深い興福寺をはじめ各地から名品を集めて、その生涯の事績を通覧します。さらに運慶の父・康慶、実子・湛慶、康弁ら親子3代の作品を揃え、運慶の作風の樹立から次代の継承までをたどります。
以下に、気になったものをメモとして残します(◉は国宝、◎は重要文化財)。
第1章 運慶を生んだ系譜ー康慶から運慶へ
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の作者である大仏師・定朝から仏師集団は三つの系統に分かれましたが、運慶の父・康慶は興福寺周辺を拠点にした奈良仏師に属していました。院派、円派の保守的な作風に対して、奈良仏師は新たな造形を開発しようとする気概があったようです。
ここでは、運慶の父あるいはその師匠の造った像と、若き運慶の作品を展示し、運慶独自の造形がどのように生まれたのか、その源流をご覧いただきます。
1《◎阿弥陀如来および両脇侍坐像 3軀 平安時代・仁平元年(1151) 奈良・長岳寺》
中尊の阿弥陀如来、両脇侍の観世音菩薩と勢至菩薩は、高野山真言宗長岳寺の本尊。阿弥陀如来は上品上生の定印を結び、脇侍はそれぞれが片足を垂らした半伽椅座像である。玉眼を用いた仏像としては日本最古のもの。
2《◎毘沙門天立像 奈良・中川寺十輪院伝来 1軀 平安時代・応保2年(1162)頃 東京国立博物館》
四天王のうち北方を守護する多聞天は、単独では毘沙門天と呼ばれて信仰を集めた。日本では革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表され、宝棒、宝塔を持ち、邪鬼の上に乗ることが多い。
この像は玉眼で表面に彩色が截金が施されている。像内に毘沙門天を表した印仏(仏像の形を版に彫って紙に押したもの)と彩色の画像が多数収められていた。
4《◉大日如来坐像 運慶作 1軀 平安時代・安元2年(1176) 奈良・円成寺》
大日如来は密教における根本仏。如来でありながら、宝冠、瓔珞、臂釧、腕釧を身に着けた王者の姿をとっている。
台座の裏に墨書があり、運慶が「安元元年十一月廿四日」に造仏の注文を受けて造り始め、「同二年十月十九日」に完成した像を引き渡したことが知られる。銘文は運慶自身が書いたもので、末尾に「大仏師康慶実弟子運慶」と記し、署名している。運慶の最初期の作。
6《◎仏頭 運慶作 1個 鎌倉時代・文治2年(1186) 奈良・興福寺》
享保2年(1717)に焼失した興福寺西金堂の本尊、釈迦如来坐像の頭部として伝来。古記に「この像の眉間からは自然に光が発せられたので白毫はつけなかった」とある。
7《◎四天王立像 康慶作 4軀 鎌倉時代・文治5年(1189) 奈良・興福寺》
四天王は持国天、増長天、広目天、多聞天。いずれも像高は2メートル前後で頭に火炎光があり邪鬼の上に立つ。表面の彩色の状態がよい。持国天は宝珠と宝剣、増長天は宝剣と宝戟、広目天は宝戟と羂索、多聞天は宝戟と多宝塔を持っている。
踏まれている邪鬼の表情がいちいち面白く、漫画太郎の作品に出てきそうなのばかりでした。
8《◉法相六祖坐像 康慶作 6軀 鎌倉時代・文治5年(1189) 奈良・興福寺》
興福寺法相宗興隆に貢献のあった6学僧(常騰、神叡、善珠、玄昉、玄賓、行賀)の肖像で、寄木造、彩色、玉眼の坐像で像高80センチ前後と実寸大。
衣文表現に誇張があるものの、極めて写実的に作られている。この時代、彫刻では西洋のルネッサンス的な方向性が得られていたのが、絵画では一向にそうならないのが面白い。
第2章 運慶の彫刻ーその独創性
鎌倉時代の人々が仏像に求めたのは、仏が本当に存在するという実感を得たい、ということだったでしょう。運慶はその要求を受け止めて、余すところなく応えたのです。
9《◉毘沙門天立像 運慶作 1軀 鎌倉時代・文治2年(1186) 静岡・願成就院》
頭には光背があり、唐の武将風の革の甲冑に包まれた体は引き締まり、左に腰を捻って二匹の邪鬼を踏んで立つ。右手に宝塔、左手に宝鉾を持つ。像内に納められていた五輪塔形の銘札の墨書から、文治2年(1186)に北条時政の依頼で運慶が造ったものとわかる。北条氏の本拠地伊豆韮山にある願成就院の国宝5仏のうちのひとつ。
12《◉不動明王立像 運慶作 1軀 鎌倉時代・文治5年(1189) 神奈川・浄楽寺》
右手に宝剣、左手に羂索を持ち、憤怒の表情に玉眼が光る。像内から月輪形銘札が見つかり、和田義盛の発願により運慶が造立したものと判明した。
13《◎毘沙門天立像 運慶作 1軀 鎌倉時代・文治5年(1189) 神奈川・浄楽寺》
右手に宝鉾、左手に宝塔を持ち、邪鬼を踏みつけている。玉眼、木造寄木造。不動明王と同種の銘札が像内に入っていた。
15《◎地蔵菩薩坐像 運慶作 1軀 鎌倉時代・12世紀 京都・六波羅蜜寺》
剃髪の僧形の坐像。夢見地蔵とも呼ばれ、眉目秀麗な面相で、左手に宝珠を持つ。一木造でありながら衣文が深く刻まれ、玉眼の効果もあり、優美な雰囲気を伴う。両袖の先に接ぎ面があり、元は台座の下に衣が垂れていたと考えられる。
16《◎大日如来坐像 1軀 鎌倉時代・12~13世紀 東京・真如苑真澄寺》
髻を高く結い上げ、胸の前で智拳印を結び、結跏趺坐する対日如来像。厚みのある上半身、肉付きのよい面貌が、他の運慶の特徴と共通する。
ニューヨークの競売会社クリスティーズの競売にかけられ、あわや国外流出かと思われたのを約12億5千万円で三越(後に真如苑の代理だったと判明)が落札した。落札額は当時の日本美術品の過去最高額だった。元は、栃木県足利市にあった樺崎寺の下御堂に置かれていた厨子に安置されていた。
17《◎大日如来坐像 1軀 鎌倉時代・12~13世紀 栃木・光得寺》
厨子に入った小さな大仏如来像。大日如来は16とよく似た造形で、髻を高く結い、智拳印を結び、結跏趺坐している。獅子の背に乗せられた七重の蓮華に座する。蓮弁にはガラス製の飾りがある。
18《◉八大童子立像 運慶作 6軀 鎌倉時代・建久8年(1197)頃 和歌山・金剛峯寺》
平安時代後期、12世紀作の不動明王像に随う八大童子として八条女院の発願で造られたもので、6体が運慶作、2体は後補である。経典で性悪とされる制多伽童子が理知的な顔に造られるのをはじめ、いずれも上品な姿である。玉眼は視線の強さ、あるいは聡明さなどを巧みに表し、生きているように見える。造像時の華麗な彩色もよく残っている。
19《◎聖観音菩薩立像 運慶・湛慶作 1軀 鎌倉時代・正治3年(1201)頃 愛知・瀧山寺》
源頼朝の供養のため、頼朝の従兄弟にあたる僧・寛伝が依頼した。『瀧山寺縁起』には、聖観音像の像内に頼朝の髪と歯が納められたと記され、X線写真により、頭部内に納入品が確認されている。脇侍の梵天・帝釈天を合わせ三尊とも作者は運慶・湛慶とする。肉付きの良い体体と写実的な着衣の表現など運慶の特色が顕著。表面の彩色は後補。
20《◉無著菩薩立像/世親菩薩立像 運慶作 2軀 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺》
無著、世親の兄弟は5世紀、北インドに実在した学僧で、法相教学を体系化した。いずれも2メートルを越す像高で、無著像は老人の顔で右下を見、世親像は壮年の顔で左を向き、遠くを見る。運慶の指導のもとに無著像は運助、世親像は運賀が担当した。天平彫刻の写実性と弘仁彫刻のたくましい量感とをあわせ持つ、日本肖像彫刻の最高傑作。
21《◉四天王立像 4軀 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺》
彫眼の寄木造で南円堂須弥壇四方に安置されている。いずれも沓を履いて岩座に立つ。持国天(東)は赤色の肌で右手で宝剣を持ち、下向きに構えた剣の先に左手を添えている。増長天(南)は肉色の肌で右手を腰に当て、左手は宝戟を支える。広目天(西)は緑の肌で右手は拳を腰に置き、左手は宝戟を持つ。多聞天(北)は白い肌で右手で宝戟を、左手で宝塔を持つ。下半身に着ける裙が短めで全体に軽快なのは、奈良時代に習った様式。
肌の色から、持国天を増長天、増長天を広目天、広目天を持国天とし、元は中金堂のものであるというのが定説化している。
24《◎大威徳明王坐像 運慶作 1軀 鎌倉時代・建保4年(1216) 神奈川・光明院(神奈川県立金沢文庫管理)》
元は六手、六足で水牛に乗る姿だったとされるが、破損部分が多く、顔二面と胴体、胸に置いた右手と一本の上腕部分が残るのみ。像納入品で源頼家、実朝両将軍の養育係が運慶に作らせたと判明した。
第3章 運慶風の展開ー運慶の息子と周辺の仏師
28《◎観音菩薩立像/地蔵菩薩立像 2軀 鎌倉時代・12~13世紀 神奈川・満願寺》
共に寄木造りで玉眼入り、像高は2メートルを超える。観音菩薩像は高い髷、手に蓮を持つ。軽く腰を捻り右足を前に出し、膝を軽く曲げたポーズで、穏やかな表情の中に男性的なたくましさがある。地蔵菩薩像は左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。
29《◎四天王立像 4軀 鎌倉時代・13世紀 京都・海住山寺》
いずれも像高40センチ弱の立像。持物や岩座、多聞天の邪鬼等を除き、全てではないが、金銅製の頭光や冠繒も当初のものが残る。像表面の彩色も、保存状態が極めてよい。
広目天に踏まれている邪鬼の顔が面白かった。
30《◎毘沙門天立像/吉祥天立像/善膩師童子立像 湛慶作 3軀 鎌倉時代・13世紀 高知・雪蹊寺》
三尊とも檜の寄木造で玉眼嵌入の像。毘沙門天立像を中心に、左脇侍に吉祥天、右脇侍に善膩師童子が配される。毘沙門天立像の左足柄に「中尊一躰並吉祥天女禅尼師童子以上三躰 法印大和尚位湛慶」との銘記が発見されて以来、運慶の長子である湛慶の作とされている。毘沙門天とくらべて両脇侍は小さく半分程度の像高。善膩師童子立像の表情は32の子犬のあどけない表情に通じるものがある。
32《◎子犬 1軀 鎌倉時代・13世紀 京都・高山寺》
創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基は、鎌倉時代の明恵である。鳥獣戯画を始め、多くの文化財を伝える。明恵が動物を慈しんだことは伝記に多く語られ、『夢記』にもしばしば動物が顔を出す。本品は、明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬と伝えられている。
35《◉天燈鬼立像/龍燈鬼立像 康弁作(龍燈鬼) 2軀 鎌倉時代・建保3年(1215) 奈良・興福寺》
龍燈鬼の像内に納入されていた文書で建保3年、康弁作であることが判明している。げじげじ眉毛を切り抜いた銅板で作り、牙は水晶製。両腕、臀部、大腿部の筋肉表現は鍛え上げた人物を傍にして彫ったと思えるほど写実的である。東大寺南大門の金剛力士像に通ずるもので、康弁が運慶から学び、継承したことがわかる。
天燈鬼のポーズも龍燈鬼の表情もコミカルで、どうにもすず風金魚師匠を思い出してしまいました(失礼
36《◎十二神将立像のうち辰神・巳神・未神・申神・戌神 京都・浄瑠璃寺伝来 5軀 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館》
37《◎十二神将立像のうち子神・丑神・寅神・卯神・午神・酉神・亥神 京都・浄瑠璃寺伝来 7軀 鎌倉時代・13世紀 東京・静嘉堂文庫美術館》
九体阿弥陀と浄土庭園で知られる浄瑠璃寺に伝来した十二支にちなんだ像。明治時代初頭に寺を離れ、民間に流出したが、現在は静嘉堂文庫美術館と東京国立博物館の2カ所の所蔵となっている。12体が一堂に会するのは、昭和50年(1975)に東京国立博物館が開催した「鎌倉時代の彫刻」展以来。
平成館の広さを十分に生かし、多くの像がガラス越しでなく、四方八方から観ることができる展示でした。仏像に思い入れがあるわけではないし、展示数も多くはないので、それほど時間をかけずにすみました。東博でやる特別展は、いつも物量で攻めてくるのに、今回はミニマムに仕上がった展示でした。このくらいの量なら集中力切らさずに観られて、私にはちょうどよいみたい。
展示室は多少混雑していましたが、観るのに困るほどではなく、エスカレーターで上がってすぐの休憩スペースのソファに座れる程度でした。午後から行ったのは正解だったようです。
それにしても、彫刻の分野では鎌倉時代にこれほどまでに写実性が求められたのに、日本美術の絵画表現ではそうならなかったのが、とても不思議です。仏師はあたりまえのように写実的なデッサンを繰り返したはずなのに、そこからはせいぜい肖像画の発展に留まったわけで。そもそも、西洋美術を前提にした思い込みで、写実性の先に画面の再構成があると考えるのが不自然なんでしょうか。日本美術では、最初から画面構成が優先されているので、意匠性がなくては画ではないという伝統があるのかもしれません。
鑑賞後、東洋館横のゆりの木で休憩。季節限定の秋色マロンパイ。
運慶展にちなんで、奈良古代チーズ「飛鳥の蘇」。
興福寺が建立された8世紀前後に作られたという日本初のチーズを復元したものだそうです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません