北斎-富士を超えて-@あべのハルカス美術館

2022年4月19日

これから北斎展に行く方へ。
できるだけ快適に北斎展を楽しみたい場合、今のうちなら平日の18時過ぎからが空いているようです(平日20時まで開館)。もちろん、チケットは事前にオンラインチケット、コンビニ、金券ショップなどで手に入れておきましょう。

 

連休に展覧関巡りで遠征しました。

初日はあべのハルカス美術館北斎展(リンクはキャッシュです)へ。

稀代の浮世絵師、北斎。ゴッホやモネに影響を与え、「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は「The Great Wave」として世界で最も知られる作品の一つです。新パスポートに「富嶽三十六景」が採用され、今、北斎は日本を象徴する存在になりつつあります。本展では、肉筆画を中心に還暦以降の30年に焦点を当て、90歳まで描き続けた北斎が追い求めた世界に迫ります。

美術館開館の少し前に到着したところ、既に入場のための列が長く伸びていました。想像よりも混雑していて、嫌な予感しかない。
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荷物があったので会場のコインロッカー不足を心配して、スタッフに中の様子を尋ねましたが、いくら尋ね直しても回答をはぐらかす。スタッフが大行列に慣れていないのが明らかで不安増大。展覧会運営側を頼るのは無理と見切りをつけ、入場待ちの列に夫を残し、ロッカー探しの旅に出かけました。なんとか天王寺駅近くに荷物を預けて美術館に戻りました。
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あべのハルカスに着いてから展覧会場に入るまで40分くらいですみましたが、コインロッカーの空きなし、音声案内もなし、入場制限はないものの展示場入ってすぐは大混雑という状態でした。

以下、気になったものをメモとして残します(◎は重要文化財)。

第1章 画壇への登場から還暦

4《玉巵弾琴図 寛政10年(1798)頃 紙本着色二幅 個人蔵、ニューヨーク》
右幅には中国の高貴な衣装をまとった女人が黒雲に立っている。左幅は黒雲から現れる琴を背負った竜が描かれている。玉巵は西王母の娘で、一弦の琴を弾き白龍に乗って飛ぶという伝説の女人。

9《◎二美人図 享和期(1801-04)頃 絹本着色 MOA美術館》
立姿の花魁に坐姿の女芸者を配した構図で、顔の表情や衣裳文様に北斎一流の手腕が見られる。落款および「亀毛蛇足」の朱文長方印より推定して、北斎四十歳代の作品と見られている。

第2章 富士と大波

北斎にとって富士山は、大自然の象徴であり、超絶なるものの象徴でした。すなわち、崇高なる神であり、超えるべき目標でした。いつしか北斎は、富士山に自身の人生を重ね合わせていたように思われます。1820年代後半、妻の死や自身の病気、孫の逸脱行為による経済的困窮など、さまざまな苦難を経験した北斎にとって、「富嶽三十六景」シリーズは画家としてのキャリアを復活させるきっかけとなりました。

16《『柳の糸』より「江島春望」 寛政9年(1797)大本 大本 大英博物館
グレートウェーブの始まりと言われている作品。江ノ島の春を描いたもので、波打ち際に背の丈程の波が押し寄せている。
この後、浜辺で談笑している大人子どもが慌てふためくのが目に浮かびます。

19《霞が関での年始回り 文政7-9年(1824-26)頃 紙本着色 ライデン国立民族学博物館》
西洋からの注文を意識してなのか、司馬江漢ばりの遠近法と陰影を使った立体感の表現が物珍しい。画面奥に見えるのは火の見櫓。当時の霞が関は大名屋敷が立ち並んでいた。諸大名の元へ挨拶回りをする侍が、凧売りとそれを眺める子供をに何か話しかけている。正月の風景らしく空には凧。手間で二頭の犬が肛門嚢を嗅いでいる。

22《花見 文政7-9年(1824-26)頃 紙本着色 ライデン国立民族学博物館》
これもオランダからの注文で描いたもの。満開の桜の下、花見に向かう女二人とそのお伴の姿が描かれている。絵の具のにじみがないので、着物の柄などの描き方が鮮明で緻密な印象。

24《初夏の浜辺 文政7-9年(1824-26)頃 紙本着色 ライデン国立民族学博物館》
これもオランダからの注文で描いたもの。いかにも北斎らしい構図で、大きな錨の上に座ったり逆さ吊りになったりバランスを取ったりする子供の姿が面白い。舟の底の修理をしている様子は神奈川沖浪裏を思い出させる。

31《千絵の海 総州銚子 天保4年(1833)頃 横中判錦絵 千葉市美術館》
「千絵の海」は、各地の漁を画題に描いた揃物。銚子の荒波に揉まれながら漁をする二艘の舟を描いている。

33《波濤図 弘化3年(1846) 絹本着色 個人蔵》
点描で泡のような波濤を描いている。北斎の波濤研究の一端を感じる作品。

34《『富嶽百景』二編 天保6年(1835)頃 半紙本 大英博物館》
北斎76才の頃。砕け散る波頭は千鳥の群れと一体となり遠方の富士の峰へと降りかかる。

44《富嶽三十六景 甲州石斑沢 天保1-4年(1830-33)頃 横大判錦絵 メトロポリタン美術館
霞から顔を出す富士山と、岩上から投網を引き上げようとする漁師とその子供の姿が描かれている。

45《富嶽三十六景 相州梅沢左 天保1-4年(1830-33)頃 横大判錦絵 大英博物館
丹頂鶴のいる富士の風景。

46《富嶽三十六景 甲州三島越 天保1-4年(1830-33)頃 横大判錦絵 大英博物館
富士山の見える峠の風景。中央に巨木。三人の旅人が手を繋いで太さを確かめている。富士山頂にかかる瑞雲のような雲が面白い。

49《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 天保1-4年(1830-33)頃 横大判錦絵 大英博物館

51《富嶽三十六景 凱風快晴 天保1-4年(1830-33)頃 横大判錦絵 大英博物館

52《富嶽三十六景 山下白雨 天保1-4年(1830-33)頃 横大判錦絵 大英博物館

63《富嶽三十六景 諸人登山 天保1-4年(1830-33)頃 横大判錦絵 大英博物館

第3章 目に見える世界

74《諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし 天保5年(1834)頃 横大判錦絵 大英博物館
険しい崖に渡された手摺もない吊り橋を樵の夫婦が渡って行く。対岸には鹿、空には鳥がいて、緊張感の中にのどかさが感じられる。

76《諸国名橋奇覧 三河の八ツ橋の古図 天保5年(1834)頃 横大判錦絵 大英博物館
伊勢物語の名所。題名に古図とあるように、当時は既に八ツ橋はなく想像して描いた。

83《牡丹・蝶 天保2-3年(1831-32)頃 中判錦絵 東京国立博物館
花鳥画の揃物。画面中央に風にそよぐ牡丹を描く。宙の蝶も大風に吹き飛ばされそうな体勢。

85《朝顔・蛙 天保2-3年(1831-32)頃 中判錦絵 フィッツウィリアム美術館》
花鳥画の揃物。色形様々な朝顔が描かれている。中央に弦に足をかけた蛙がいるが、まるでだまし絵のように溶け込んでいて、題名を見なければ存在に気づけない。

90《辛夷花・文鳥 天保1-4年(1830-33)頃 中判錦絵 大英博物館
花鳥画の揃物。コブシの花と、枝に止まり体を反り返した文鳥の姿を描いたもの。コブシの花の白と文鳥の頬の白が響き合う。
枝の表現の誇張がすさまじい。どれだけ古い木なんでしょう。

91《藤・鶺鴒 天保5年(1834)頃 中判錦絵 大英博物館
花鳥画の揃物。垂れ下がる藤の花と、長い尻尾を高く上げた鶺鴒の姿を描いたもの。

101《桜に鷲図 天保14年(1843)頃 絹本着色 氏家浮世絵コレクション》
可憐な花を咲かせる桜の枯木に止まる鷲。鷲は首を伸ばし空を眺めている。猛禽類の太い脚が生々しいし、くちばしのフォルムが絶妙。

103《滝に鯉 文政4-5年(1833-34)頃 長大判錦絵 大英博物館
鯉の滝登りを描いたもの。激しい水流を逆らって上を目指す鯉と、水流に跳ね返されたのか、滝壺に身を躍らせる鯉。泡立つような水しぶきの表現が面白い。

108《雉に蛇 天保4年(1833)頃 団扇絵判錦絵 ギメ美術館》
雉の体に巻き付き、鎌首を上げて反撃を試みる蛇。
河鍋暁斎の花鳥図に雉と蛇の組み合わせがあり、以前、暁斎らしいなと感心したものでしたが、そのアイディアの元は北斎でしたか。北斎を敬愛した暁斎らしいです。

第4章 想像の世界

122《詩哥写真鏡 李白 天保4-5年(1833-34)頃 長大判錦絵 大英博物館
李白が「飛流直下三千尺」と詠んだ瀑布を見ている。子供が二人まとわりついているのは、李白を支えているのか。李白が左の袖で一人を包み込むようにしているところを見ると、李白が守っているようにも見える。

135《百人 首うばがゑとき 源宗于朝臣 天保6-7年(1835-36)頃 横大判錦絵 大英博物館
婆が絵説きする百人の歌人による詩を画題にした揃物。91枚の下絵があったが、版元が破産して完成した錦絵は27図。5図だけ刊行された。「山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば」を画題に描いたもので、雪深い場所で焚き火で猟師が暖を取っている。風によって煙が向きが変わったのを避ける男の姿が面白い。

146《詩占図 文政10年(1827)正月2日 紙本着色 大英博物館
伊勢二見の神職渡会家次は旅の途中で急死したが蘇生し、その後、弓に結わえた和歌の書かれた短冊を引き吉凶を判じる歌占を渡世として諸国を流浪したとされる。 

148《白拍子図 文政3年(1820)頃 絹本着色 北斎館》
烏帽子太刀をつけた白拍子の舞姿を描いたもの。
色もポーズもとても美しい。

152《百物語 こはだ小平二 天保4年(1833)頃 中判錦絵 大英博物館
百物語とあるが、刊行されたのはたったの5点だったという。小幡小平次は、江戸時代の伝奇小説や歌舞伎の怪談物に登場する歌舞伎役者。幽霊の役で名をあげた後に殺害され、自分を殺した者のもとへ幽霊となって舞い戻った。

156《日蓮波題目画稿 天保期(1830-40)頃 下絵 ボストン美術館
下絵で描いているのは、鎌倉幕府から赦免された日蓮聖人の船出。言い伝えによれば、聖人が沖に向かう船の上から朝日に向かって合掌すると、波間から「南無妙法蓮華経」の7文字が浮かび上がったとされる。絵入りで口で吹いてなどと指示が書いてある。

159《鍾馗図 弘化3年(1846) 絹本着色 メトロポリタン美術館
朱で描いた風に吹かれる鍾馗像。軽く左に体を捻って正面を向いている。ポーズが様になっていて、実に決まっている。

第5章 北斎の周辺

小布施の豪商・高井鴻山の招きで、北斎は弘化2年(1845、86歳)にお栄と共に小布施に旅行し、小布施の祭屋台の天井絵として一対の「濤図」を描きました。北斎は、「富嶽三十六景」シリーズを完成させる前から波の描き方を研究しており、「濤図」は、北斎の波の集大成とも言える作品です。2枚の絵を並べると道教の陰陽を対比させた「太極図」が浮かび上がって見えます。太極とは、道教の教えで全ての根源を意味します。北斎は「波」だけではなく、「宇宙」の成り立ちをも描こうとしていたと考えられています。

182《北斎自画像 天保13年(1842) 紙本 ライデン国立民族学博物館》
北斎本人が描いた83歳の自画像。41、2の頃に描いた下絵があるので、この中からうまく使えるものがあるかもしれないと版元に伝えている。

193《葛飾応為 『女重宝記』 弘化4年(1847) 大本 大英博物館
女の嗜みが書かれた本で、挿絵を北斎の三女応為が手がけた。応為は女を描くのに長けていたという。

197《高井鴻山 菊図 弘化-嘉永期(1844-54)頃 絹本着色 高井鴻山記念館》
色形様々な菊が絡み合って咲いている。鴻山の強く固い輪郭線が妖怪画のみならず、植物画でも生きている。

199《鳳凰図天井絵彩色下絵 弘化3年(1846)頃 紙本着色 小布施町・岩松院》
羽を広げ、美しい尾を体の前に垂らした極彩色の鳳凰。こちらを睨むように視線を向けている。丸く渦を巻くような形が、濤図の女浪を連想させる。小布施町にある曹洞宗の岩松院に北斎が描いた巨大な天井画の下絵。

201・202《濤図 弘化2年(1845) 板絵着色二枚 小布施町上町自治会》
上町祭屋台の天井絵。北斎の波の研究の集大成ともいわれる作品。三方から荒れ狂う波を描いた男浪、渦を巻く女浪の対。縁絵は応為が手がけたともいわれ、鴻山が彩色したという話も残る。

第6章 神の領域

北斎の晩年の作品では、龍や獅子、鳳凰、鷹などの生き物、そして力強いエネルギーにあふれた伝説上の人物や聖人が生き生きと描き出されます。北斎の数え88歳から90歳で亡くなるまでに描かれた肉筆画の数々は、北斎が信仰と芸術の崇高な領域に達したことを示しています。北斎は亡くなる直前に「天があと5年命をくれたなら、真正の絵師になれただろうに」という言葉を残したと伝わっています。死を前にしてもなお、画家として理想を追求し続けた北斎。彼が目指した神の領域とはいかなるものだったのでしょうか。

208《河骨に鵜図 弘化4年(1847) 紙本着色 大英博物館
池の畔の杭に止まり、首を下げてかしげる鵜。水面にはコウホネとカヤツリグサが生えている。足の形がとても奇妙で妖怪のよう。

210《七面大明神応現図 弘化4年(1847) 紙本着色 茨城・妙光寺》
黒雲の中から現れた龍に怯むことなく、読経する七面大明神。集まった人々は龍に怯えて身を伏せている。

215《李白観瀑図 嘉永2年(1849) 絹本着色 ボストン美術館
縦長の画面いっぱいに滝を描き、画面の右隅に李白としがみつく子供の姿を描いたもの。

216《富士越竜図 嘉永2年(1849)正月11日または23日 絹本淡彩 北斎館》
暗い空に浮かび上がる白い富士。黒い雲と共に龍が空に戻って行く。

219《雪中虎図 嘉永2年(1849)正月 絹本着色 個人蔵、ニューヨーク
雪が降り積もる中を楽しげに駆け回る虎。蹴散らした雪が舞い上がり、幻想的な雰囲気。雪から先だけ出す笹の葉が、虎の鋭い爪と響きあうのが面白い。

 

北斎好きとしては、多くの肉筆画が見られて満足でした。ただし、鑑賞環境としては若冲展ほどではないにしても、かなり悪かったので、別の意味でも印象に残る展覧会となりました。行列の長さ、入場制限の待機時間の長さで人気度を測るのはテレビなどマスメディアではよくあることですが、こういった運営の悪さによって行列が必要以上に伸びていることは報道されませんし、記録にも残りません。狙ったわけではないにしても。

あまりに要領の悪い運営に、なんでこんなところで開催したのかと呆れましたが、こちらの館長が北斎研究の第一人者で、本国際共同プロジェクトのメンバーだからという話のようです。

展示室に入ってすぐの場所は、最初の説明パネルを読む人で大混雑。第三章あたりになって、ようやく鑑賞者の混乱による興奮も収まっている状態でした。人が多くて狭すぎる上に、浮世絵はそもそもが小さいので人垣が二重三重になると頭越しでは見られません。《堅中版花鳥図》などは人の胸の高さに展示してあるものもあって、人垣に隠れてしまっていました。キャプションや説明の表示が下にあって読めないのも困りました。最初を飛ばして展示後半を中心に見て、気が治まってから第一章のところに戻ったのですが、時既に遅し。私が入場した時よりも更に酷い人垣ができていました。人の頭を単眼鏡で覗いても楽しくはないですねえ。

混雑に輪をかけているのが、コインロッカー不足。多くの人が大きな荷物を持っていて嵩張るし、それを避けるのも大変な有様。コインロッカーにも問題があって、導線が一方通行なので、出口に着いたら荷物を取りに入口まで往復しなくてはいけません。入口は人であふれて逆走するのが難しい状況にも関わらずです。混雑することを想定していない運営に呆れると同時に、普段多くの美術館で快適に過ごせているのが、すごいことなのだと思いました。

愚痴愚痴書いていますが、私が行った時にはまだマシだったというのを、翌日の Twitter などで知りました。この大行列がさらに人を呼ぶかもしれない会期後半を想像すると、恐ろしい。

 

京都に移動する前に、大阪駅のすぐ近く、はなだこでたこ焼き。
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ねぎマヨがおいしかった。

博物館

Posted by くるっクマ