日本美術の流れ@東京国立博物館 本館
東博では庭園の公開も始まりました。ますます博物館に通うのが楽しくなる季節です。
まだ観ていなかったところを中心に、本館を一周しました。
既に展示替えしてしまったものもありますが、以下、気になったものをメモとして残します(◉は国宝、◎は重要文化財、◯は重要美術品)。
3室 仏教の美術―平安~室町
維摩詰はインド毘耶離城に住む長者で、釈迦在家の弟子。病床に文殊菩薩が現れ、大乗仏教の真髄を説く問答を行った。
在家信者の理想像である維摩が活躍する『維摩経』を講賛し供養する維摩会の本尊画像。画面左下の束帯姿の人物は、藤原鎌足が山科寺で講賛させたのが初めとなることに因んで鎌足を描いたものとみられる。箱蓋の墨書によれば寸松庵の維摩会の本尊と伝える。
藤原氏の祖・鎌足の肖像画。左足を踏み下げ(半跏踏み下げ)両手で笏を執る鎌足の姿を中央に大きく描き、向かって左下に鎌足の子息である不比等、右下に同じく子息である僧形の定貞の三人が、上畳上の床座に坐る姿を描く。その背後には、巻き上げられた御簾の上に三面の御正体とみられる鏡がかかり、赤く装飾的な戸張をたくし上げた奥に、藤がからみつく松(天皇家に寄り添って政権を支える藤原氏を象徴)を描いた衝立がのぞいている。こうした神像として荘厳を調えた形式の鎌足像を、通称「多武峯曼荼羅」と呼んでいる。興福寺の維摩会を創始したといわれる鎌足は維摩の化身として信仰された。
3室 宮廷の美術―平安~室町
《◎清水寺縁起絵巻 巻中 1巻 画=土佐光信筆、詞=三条実香・甘露寺元長他筆 室町時代・永正14年(1517)》
京都・清水寺の創建と本尊千手観音にかかわる縁起を、観音三十三応化身にちなんで、3巻33段にまとめた絵巻。絵師の土佐光信は宮廷絵所預をつとめ、伝統的なやまと絵を基調としながら、淡彩で枯れたような筆使いが特徴的である。中巻では再び押し寄せる蝦夷の軍勢を火雷、霹靂などが追い払い、田村麻呂が凱旋。清水寺の再建と弘仁2年(811)の彼の死までを描く。激しく荒れる海原の上空で稲妻を走らせる雷神の段は、とくに本絵巻の名場面として知られている。
展示場面は以下のとおり。坂上田村麻呂が清水寺の延鎮へ東国平定を報告し、次いで朝廷に参内して報告する。延暦17年(798)、田村麻呂は清水寺を改築し、その後清水寺には荘園が集まり寺の整備が進んだ。
3室 禅と水墨画―鎌倉~室町
《白衣観音図 1幅 吉山明兆筆 健中清勇賛 南北朝時代・14世紀》
明兆筆と伝えられる水墨画の白衣観音図中では代表格。賛者の健中清勇は建仁寺の住職(第百二十一世)をつとめた。右下に押捺される「破艸アイ印」の印文を,明兆が自身を師の大道(一以)に捨てられた破れ草鞋になぞらえたとする説が流布しているが,それは近世の俗説で,本来は「踏破草鞋」すなわち沢山の草鞋をすり減らすほど多くの師匠のところへ見参して修行を重ねた意で,現代ならさしずめ「一生懸命」といったところではないだろうか。
《◎四季山水図屏風 6曲1双 伝周文筆 室町時代・15世紀》
周文は、15世紀中葉に京都の相国寺を拠点に活躍し、室町時代の水墨山水画様式の典型を作り上げたとみなされる画家。足利将軍家に仕えた御用絵師で、生前からきわめて評価が高かったが、彼の作品として確実な作品は残存しない。
本図は、一群の伝周文筆山水図屏風の中でも古様を示す初期の作例とみられる。中国名画のつまみ食いを疑似体験できるような鑑賞を前提として、図様を構成していると思われる。
7室 屏風と襖絵―安土桃山~江戸
徹山は、森狙仙の義子で、父と同じく円山応挙に学び、門下十哲の一人といわれ、円山派の画風を大坂に広めた。狙仙はとくに猿と鹿の絵を得意としたが、徹山はあらゆる動物を描いた。写実的な描写に情趣が加わり、銀地に映える牛の存在感を生みだしている。
《籬に葡萄図 6曲1双 筆者不詳 江戸時代・17世紀 東京・大倉集古館蔵》
金と黒のコントラストに圧倒される屏風で、胡粉で盛り上げた上に金を乗せて立体的な葡萄が描かれている。
《花鳥図屏風 6曲1双 曽我二直庵筆 江戸時代・17世紀》
獲物を襲う、追いかける、岩上で羽を繕う、枝上で獲物を探す。獰猛な鷹の四態を描いたもの。デフォルメされた樹木の幹や岩、激しい水しぶきなど、強い色覚効果と動勢が求められている。堺を拠点に京都、奈良で活躍した近世曽我派第二代晩年の作。
8室 暮らしの調度―安土桃山・江戸
《源氏絵彩色貝桶 1対 江戸時代・17世紀》
貝合せに用いる貝を収める箱。貝合せは360組の貝殻を一方は伏せて並べ、もう一方を一つずつ取り出して、貝殻の外側の色や文様によって一組の貝を引き当ててゆく遊び。二枚貝は貞節の象徴とされ、貝桶は大名の結婚の儀式においれ重要な役割を担い、婚礼を表象するおめだたい道具であった。
《犬張子 1対 江戸時代・19世紀》
犬張子は犬筥ともいい、雌雄一対の犬の形をした箱。紙を貼り合わせて整形する張子の手法で作られている。犬は性質が正直で魔を退けるといわれ、子供が生まれると、無事に成長するようにとの願いを込めて作られた。守札などを入れて幼児の枕元に置かれる。
雌雄一対と説明に書かれていたが、どう違うのかよくわからなかった。
《獏南天蒔絵枕 1対 江戸時代・19世紀》
大名家の婚礼の際、床入りの儀式に用いられた祝いの枕。片方の側面に悪い夢を喰うとわれる獏、もう一方の側面には、その音が「難転」に通じ厄払いの効能があるとされた南天を描く。いずれも魔除けの意味で、初夜の床を飾る枕に描き込まれたものであろう。
《花鳥蒔絵十種香箱 1具 江戸時代・17世紀 個人蔵》
十種香箱は組香(香を焚きながら聞き当てる遊び)に用いる道具一式を納める箱。この箱は様々な内容物が実によく残っており、多彩な道具類が賑やかで楽しい。表面には精巧な蒔絵で、放射状に広がる網目に尾長鳥、菊や桜を描いている。青緑の香札が目を引く。
《◎鼠志野鶺鴒文鉢 1口 美濃 安土桃山~江戸時代・16~17世紀》
志野を産み出した美濃焼の白い土に酸化鉄の泥漿を掛ける。そこに文様を掻き落として全面に長石釉をかけると、鼠地に白抜きの文様の鼠志野が出来上がる。たまさか残った掛け残しを岩に見立て、そこに一羽の鶺鴒を描いた。着想の面白さと造形とが見事に融合し、鼠志野を代表する優作となった。
10室 浮世絵と衣装―江戸(浮世絵)
《小倉山荘図 1幅 奥村政信筆 江戸時代・18世紀》
鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生の求めに応じて、藤原定家が百人一首を選定したところとして伝わる小倉山の山荘が舞台。紅葉が色づく山の庵に横たわるのが定家で、その横で三味線を引いている僧を蓮生として見立てたものか。山荘に向かうのは二本差しの若衆とその従者で、時雨にあって蓋(きぬがさ)を差している。ともに女形の意味を持つ紫帽子をつけている。
藤原定家は、能や歌舞伎で式子内親王との恋愛が創作されています。式子内親王は忍ぶ恋を詠ったものが多いことから、能『定家』では式子内親王が陥った愛欲地獄が描かれます。その導入部に、北国育ちの僧が従者を連れて旅する途中、上京という処で雨に合い、ちょうど近くにあった庵で雨をしのぐことにした場面があります。この画は、そういったものからイメージを膨らませて描かれたものと思われます。
奥村政信は、絵草紙屋奥村屋を経営する版元で自分でも数多くの版画を描いた。縦長の柱絵や遠近法を強調した浮絵など新たな版画の形式を工夫し、ユーモアあふれる題材をテーマとして庶民の人気を集める出版人として活躍した。
《◯早川初瀬の文読美人 1枚 奥村利信筆 江戸時代・18世紀》
漆絵で江戸時代前中期の女形歌舞伎役者早川初瀬を描いたもの。贅沢に二重にして巻かれた手紙や着物の柄に金の光沢がある。打掛けの黒も特に濃い。
奥村利信は、奥村政信の弟子。
《遊女道中 1枚 奥村政信筆 江戸時代・18世紀》
高々と結い上げた兵庫髷に笄を差し、櫛と簪で飾った日本髪が面白い。
《初代中村喜代三郎と初代尾上菊五郎の小倉山 1枚 石川豊信筆 江戸時代・18世紀》
初代中村喜代三郎、初代尾上菊五郎ともに江戸時代中期の女形で人気を博した歌舞伎役者。構図は奥村政信の《小倉山荘図》を参考にしたもの。後ろから差した蓋(きぬがさ)にそれぞれの定紋が印されている。右に抱き柏が見えることから音羽屋、つまり初代尾上菊五郎とわかる。左は外鐶菱に木瓜紋。
石川豊信は、西村重長の門人で、宿屋を営んでいた。狂歌師として知られる石川雅望(六樹園。宿屋飯盛)は、その子供。紅摺絵時代を代表する絵師で、丸みのある美人の顔立ちや、紅や草色の対比があざやかな上品で詩情のある作風は、鈴木春信にも影響を与えている。
《弾琴美人 1枚 鈴木春信筆 江戸時代・18世紀》
床の間で琴を弾く美人を描いたもの。床の間には茶釜が飾られ、違い棚には書物、天袋には杜若の画がある。琴の端が畳の縁を越えているため、せり出して見える。
《摂津国擣衣玉川 1枚 礒田湖龍斎筆 江戸時代・18世紀》
鈴木春信風の作品を描いていた礒田湖龍斎の初期の作品。前帯で砧打をする女の着物を、子供が寂しげに引いている。摂津の玉川の典拠である源俊頼『千載和歌集』にある「松風の音だに秋はさびしきに 衣うつなり玉川の里」から「秋は」を「家の」に変えたパロディ。
この頃の赤ちゃんは、お尻丸出しですね。頭もつるつる。
《雛形若菜の初模様・あふきや内たき川 おなみ めなみ 1枚 鳥居清長筆 江戸時代・18世紀》
雛形若菜の初模様は礒田湖竜斎や鳥居清長が描いた140枚を超える揃物。雛形とは見本帳のことで、若菜の初模様とは正月に初めて着る着物の柄をいう。つまり新作着物のファッションカタログである。
中心が吉原の大見世扇屋宇右衛門抱えの滝川、そのお付きの禿、おなみとめなみである。三人は孔雀の羽をつけた豪華な打掛を着ている。
鳥居清長は、天明期(1781~89)を代表する浮世絵師で、スラリとした長身の美人画に特徴がある。大判錦絵を横に2枚・3枚つないだ大画面に、野外風俗を描きいた健康的な美人風俗図を多く残した。役者絵では出語り図などを描き写実的要素を強めている。
《台所美人 2枚 喜多川歌麿筆 江戸時代・18世紀》
喜多川歌麿は、女性の単身像をよく描いたが、本図は一般女性の日常を描いた群像作品。日常の一瞬に女性の様々な美しさを見出している。鉄の茶釜や竈には色を変えて雲母を用いて金属の質感を出し、鋲は空摺りで立体的に表現されているなど、摺りに贅が凝らされている。
《◎谷村虎蔵の鷲塚八平次 1枚 東洲斎写楽筆 江戸時代・寛政6年(1794)》
江戸三座役者似顔絵の揃物から、本図は寛政6年5月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に取材した作品。悪事が露見し、逃げられないことを知って、相手に切りかかろうと刀を握る場面での鷲塚八平次が描かれている。着物に谷村虎蔵の家紋、祇園守紋が入っている。
《詩哥写真鏡・木賊苅 1枚 葛飾北斎筆 江戸時代・19世紀》
和漢の著名な詩歌に想を得た揃物で、信濃国で木賊を刈る老人が、幼くして生き別れた子と出会う謡曲『木賊』を題材としている。
《本朝名所・信州更科田毎之月 1枚 歌川広重筆 江戸時代・19世紀》
長野県更級郡冠着(かむりき)山(姨捨山)のふもとの棚田一つ一つに映る月を描いたもの。田毎の月は平安時代から観月の名所として知られ、芭蕉は「おもかげや姥ひとり泣く月の友」「このほたる田ごとの月とくらべ見ん」と詠んだ。
18室 近代の美術
《高秋霽月 1幅 長野草風筆 大正15年(1926)》
ちぎれ雲の中から顔を出した満月を描いたもの。高秋(こうしゅう)は秋の季語で、晴れ渡って高く見える秋。秋たけなわ季節の意。霽月(せいげつ)は、雨が上がったあとの月。転じて、曇りがなくさっぱりとした心境を表す。
月の光で吹き飛ばされたように見えるちぎれ雲。幻想的な雰囲気が感じられます。
《岩藤熊萩野猪 6曲1双 望月玉泉筆 明治時代・19世紀》
臥して眠る猪、つまり臥猪(ふすい)は、亥の年を寿ぐ意味を込めて「富寿亥」とも表記する。また江戸時代後期には、鎮めて安泰にするという意味の「撫綏」という言葉との語呂合わせとして使われた。天下泰平を祈る吉祥画としてみることができる。萩に猪は円山派によく描かれた画題。7月の花札にも使われている取り合わせ。右隻は藤と月の輪熊の組み合わせ。
《河口慧海師像 1面 高村真夫筆 明治時代・20世紀》
河口慧海は、チベット旅行記を書いた黄檗宗の僧侶で仏教学者にして探検家。明治時代に日本人として初めてヒマラヤ山脈を越えて鎖国状態のチベットに入った。
河口慧海の『チベット旅行記』は地図と照らし合わせながらこれまで何度も読んだ。そもそもKindleに入れっぱなしなので、今でも暇をあかして読むことがある、いわゆる私の徹夜本です。冒険記の中で、その信念の強さは凄まじいエピソードとして記されているのですが、肖像画の正面を見据えた姿も実に頑固そうです。
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