日本美術の流れ@東京国立博物館 本館
本日もいそいそとトーハク詣で。本館正面にあるユリノキもすっかり葉を落としました。
展示替えのあったところを中心に一回りしました。
以下に、気になったものをメモとして残します(◉は国宝、◎は重要文化財、◯は重要美術品)。
本館 10室 浮世絵と衣装―江戸(浮世絵)
12月は、忠臣蔵の季節といわれます。毎年恒例となっている「仮名手本忠臣蔵」の展示を、 今回は歌川国芳の作品を中心として構成し、年の市や「名所江戸百景」の冬の部の作品を加えて師走らしい風情を感じていただきます。
去年、同じ時期に忠臣蔵をまとめて勉強しました。
《假手本忠臣藏八段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・19世紀》
八段目は道行旅路の嫁入。母の戸無瀬が娘小浪を力弥の嫁にしてもらおうと、供も連れずに母娘ふたりで、鎌倉から由良助たちのいる京の山科へと向う場面。東海道を徒歩で向かう途中、富士を眺めるお歯黒の女が母の戸無瀬。娘は籠の中から外を眺めている。
《忠臣蔵十一段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・19世紀》
十一段目は合印の忍び兜の場面。大星由良助たちは渡し舟に乗り込み、ひそかに稲村ヶ崎に上陸する。正面中央に大木を描き、その木に隠れるように黒羽織の由良助。画面下に揃いの黒羽織の者達が身を潜める。
《仮名手本忠臣蔵・大序 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
大序は鶴岡兜改めの段。新田義貞着用の兜を見極めるため、塩冶判官の妻かほよ御前が直義の前に呼ばれる。画面左端に大銀杏。壇上に高師直、唐櫃を挟んで、右が桃井若狭之助、左が塩冶判官。
江戸時代、実際の討入事件を題材に上演することは、幕府の体面を傷つけるとして禁じられたため、『仮名手本忠臣蔵』は『太平記』を題材に書き直されている。大石内蔵助の役名は「大星由良之助」、浅野内匠頭は「塩冶判官」、吉良上野介は「高師直」といった具合。衣裳の紋は大石家の家紋が右二つ巴、赤穂浅野家が違い鷹の羽、吉良家が五三桐。丸に四つ目菱は、堀部弥兵衛
《仮名手本忠臣蔵・二段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
二段目は松切りの場面。恥をかかされた若狭之助は腹の虫がおさまらず、師直を討つつもりだと家老の加古川本蔵に明かす。本蔵は止めもせず、若狭之助の刀を取って庭先の松の片枝を切り捨てて「この通りに」と挑発する。衝立の影に加古川本蔵の妻戸無瀬がいる。奥の部屋では、大星由良助の子息大星力弥が、使者として館を訪れているのを、いいなづけの小浪が応対している。
《仮名手本忠臣蔵・三段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
館騒動の段の場面。かほよ御前からつれない返事を受けた師直は、やつあたりで塩冶判官に怒りをむけた。ついに堪えきれず判官が刀を抜き師直に斬りつける背後から半蔵が抱きついて、それを止める。
《假名手本忠臣蔵・四段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
城明け渡しの場面。いよいよ屋敷を明け渡す段となるが、なおも名残惜しそうに屋敷の方を見る由良助たち。由良助は判官が切腹に使った刀を見せ、師直に返報しこの刀でその首をかき切ろうと説得する。
《仮名手本忠臣蔵・五段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
鉄砲渡しの場面。鉄砲を持って狩をする勘平は、思いがけず以前の朋輩千崎弥五郎と出会う。
《仮名手本忠臣蔵・六段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
おかる身売りの場面。おかるの親与市兵衛の家に勘平がお金持ってやってきた。一文字屋に女郎として身を売られるおかると、それを引き止める母。財布を前にして坐る勘平。
《仮名手本忠臣蔵・七段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
祇園一力茶屋の場面。由良助は二階座敷で遊女たちを集め酒宴を開いて騒いでいる。かほよ御前からの密書を受けて由良助が読むのを、二階からおかるが、床下では塩冶と内通した九太夫が盗み見する。おかるが床下に潜む九太夫を刀で刺し、おかるの兄平右衛門が引きずり出す。
《仮名手本忠臣蔵・八段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
道行旅路の嫁入の場面。加古川本蔵の妻戸無瀬と小浪は京山科に居る力弥のもとへと、東海道を歩いて向う。
《仮名手本忠臣蔵・九段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
山科閑居の場面。戸無瀬と娘の小浪が山科の閑居で祝言をあげる心づもりで到着するが、断られ自害しようとするのを、虚無僧がやってきて止める。力弥の母が、縁談を断る口実に本蔵の首をよこせと言うと、虚無僧が傘を脱ぎ捨て、本蔵であることを明かす。本蔵が挑発し、飛び出してきた力弥が槍で突く。庭には雪の五輪塔がある。
《仮名手本忠臣蔵・十段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
人形まわしの場面。伊吾八は幼いよし松の機嫌をとるため、人形をもてあそびながらあやしている。
《仮名手本忠臣蔵・十一段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
討入りの場面。柴部屋に隠れていた師直を捕まえた。
《仮名手本忠臣蔵・十二段目 1枚 歌川国芳筆 江戸時代・安政元年(1854)》
先に示した《忠臣蔵十一段目 1枚 歌川国芳筆》と同版。
《名所江戸百景・浅草金龍山 1枚 歌川広重筆 江戸時代・安政3年(1856)》
雷門の大提灯を手前に、雪の金龍山浅草寺を描いたもの。安政の大地震で傾いた五重塔の修復に合わせて刊行された。雪は空摺りで表現されている。
《名所江戸百景・びくにはし雪中 1枚 歌川広重筆 江戸時代・安政5年(1858)》
やまくじら(猪肉)の料理を出す尾張屋の向かいには「○やき三十里」と看板が出ている。江戸時代の肉食についてよく引き合いにだされる画。栗(九里)より(四里)美味い薩摩芋を丸焼きにして売っていた。匂いにつられて犬が集まっている。びくにばしは京橋川にあった橋で現在の銀座一丁目あたり。右端に外堀の石垣がみえる。奥には数寄屋橋の火の見櫓がある。
《名所江戸百景・高田の馬場 1枚 歌川広重筆 江戸時代・安政5年(1858)》
現在の西早稲田3丁目付近です。馬場は三代将軍家光が馬術の練習場として寛永13年(1636)に造られた、旗本たちの馬術の練習場。画面中段に馬の走路が、手前には円盤状の革張りの矢の的が描かれている。的の表面には質感を再現するために布目摺りがほどこされている。
《誠忠義士銘々傳 1巻 歌川国芳筆 江戸時代・弘化4年(1847)》
忠臣蔵討入りの様子を一人一図で描いた51枚揃いを巻物にしたもので、国芳が画を、一筆庵(渓斎英泉)が銘々伝を入れた。
《◯めんないちどり(見立由良之助一力遊興) 3枚 鳥高斎栄昌筆 江戸時代・18世紀》
『仮名手本忠臣蔵』七段目には、大星由良之助が仇討を忘れたと見せかけて祇園の一力茶屋で遊び呆けて敵を油断させる場面がある。粋な遊び人を示す紫の衣装、「目んない千鳥」(目隠し鬼)で女性たちに囲まれる華やかで艶っぽい場面。本図は、その場面に見立てられる。
鳥文斎栄之がこうも美人を並べて描く時は着物の柄などが気になって仕方がありません。きっと《茶屋娘見立雁金五人男》などのように、当時の美人で見立てているに違いありません。
吉原仲之町にあった高級料理茶屋歓々楼での酒宴の様子が描かれている。手前の庭では、一人の酔客が目隠しをされて鬼ごっこをしている。「仮名手本忠臣蔵」の祇園一力茶屋での大星由良助遊興の場面をやつした図とされている。左には仲の町通り、遠く大門が見える。
正月用の飾り物などを売る年の市。本図は美人画を得意とした歌麿が、今年も毎年開催される浅草寺での年の市を描いた作品。5枚続きのダイナミックな画面を用いることで、新春を迎えようとする人々の活気と賑わいが、よりいきいきと描き出されている。
《義士引きあげ 3枚 歌川国芳筆 江戸時代・19世紀》
義士たちは討ち入り後、亡君の墓前に敵首を供えるため菩提所へ向う。その途中の花水橋で騎馬の桃井若狭之助(または服部逸郎)と出会い、本懐を遂げたことを報告する。本来『仮名手本忠臣蔵』にはこの場面はないが、現行の歌舞伎では花水橋引き揚げの場として演じられる。
13室 陶磁
唐津焼は16世紀後半には北部九州で始っており,美濃とともに日本の東西を二分する施釉陶の産地であった。この大鉢は銹絵で草花を描き,唐津焼独特の枇杷色の釉色地に銹絵ならではの蕭條とした風韻があますことなく表出している。数少ない唐津焼大鉢の中でも屈指の優品である。
緑と赤に塗り分けられる鳴海織部のタイプは、織部の中でも最も抽象的な意匠となるものが多い。この角鉢に白泥で描かれているのもは吊し柿とも草花とも見え、はたまたそのいずれでもないのかとも見える。それがまた織部の意匠ならではの面白さである。
何を意匠しているのかよくわからないし、もし使うとしたら何を乗せていいのかも全くわからない。そんなところまで好き。
《褐釉耳付水指 1口 高取 江戸時代・17世紀 個人蔵》
叩き成形の技法で形作られている。胴を大きく三角形に歪め、随所に櫛目や箆目を加えて装飾を施している。豪放でありながら、柔らかく優雅な姿からは、瀟洒な気分が感じられる。高取焼内ヶ磯窯で焼かれた水指を代表する優品である。
野々村仁清は丹波の出身で,京都御室仁和寺門前の御室焼を指導し,京焼色絵陶器の完成者として名高い。茶壷に多くの優品を残しており,この壷でも見事なまでの轆轤の技を見せ,上絵具と金泥を使い,立体意匠の魅力を充分に生かして,気宇の大きな狩野派風の月梅図を描く。仁清絵茶壷の代表作である。
《銹絵染付舵櫂文茶碗 1口 仁清 江戸時代・17世紀》
野々村仁清は丹波の出身で、京都御室仁和寺門前の御室焼を指導し、京焼色絵陶器を大成した。白地の茶碗の側面に染付で舵、鉄釉で日本の櫂を描き入れる。船の本体こそ省かれているが、どこか水面の揺らぎを想起させる、意匠性に富んだ作品である。
江戸時代を代表する絵師尾形光琳の弟尾形深省は元禄12年(1699)に京都鳴滝に窯を開き、作品には「乾山」の銘を書き込んだ。深省四十年程の作陶歴の中で、この香合は初期鳴滝時代の作と推測される。椿一輪を型抜きした細やかな色絵陶器である。
《◎銹絵観鷗図角皿 1枚 尾形光琳・深省合作 江戸時代・18世紀》
尾形光琳の弟尾形深省は元禄12年に京都の鳴滝に窯を開き,作品には「乾山」の銘款を付けた。乾山焼の中でも兄光琳が絵付をした兄弟合作の作品は特に名高く,この角皿もその代表作である。中国宋代の詩人黄山谷が鴎を眺めている図を光琳が軽妙な筆致で描き,裏面には深省が見事な筆で銘款を記している。
《色絵絵替小角皿 5枚 永楽和全作、「永楽」印 江戸~明治時代・19世紀》
永楽和全は保全の長男で、永楽善五郎十二代。江戸後期から明治にかけて活躍し、京都のほか九谷、岡崎などでも作陶を行っている。この作品は布目を効果的に使った独自の上絵付け方を用いたもので、乾山の色絵角皿をもとにしながら独自の境地を開いている。
《色絵青海波鶺鴒文皿 1枚 鍋島 江戸時代・17~18世紀》
肥前性を治めた鍋島藩は藩窯置いて将軍家への献上品や大名家への贈答品などを焼いた。色絵と染付を併用した作品を色鍋島という。地の青海波文には墨弾きの技法が用いられている。高度な技巧、抑制された色づかいに、鍋島独特の高い気品が感じられる。
15室 歴史の記録 江戸の食文化
《文人歓楽之図 1幅 田能村直入筆 江戸時代・19世紀》
田能村直入は、9歳で文人画家田能村竹田に入門し、田能村姓を継いだ人物。明治初年に京都に移り、京都南画壇の重鎮として南画の振興に尽くした。文人らが食事をしながら歓談する様子からは、楽しい会食をともなう幅広い交友関係の大切さが伝わってくる。
田能村直入は幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家で、日本最後期の文人画家として知られ、煎茶の普及に尽力したという。
宴会の様子が軽妙な筆運びで描かれています。座に一人立ち上がって上半身を脱いでいる人は、これから何をやる気でしょうね。
月下酒宴之図 1幅 江戸時代・18世紀》
江戸時代中期以降、花宮芝居が盛んになり、その楽しみに弁当が加わった。月見をしながら宴を催す7人の男女とともに、酒器、重箱や、鼓などの楽器も描かれている。弁当箱の意匠や詰め合わせ方にも趣向を凝らす弁当文化の多彩さは、日本独自のものといえる。
山に満月、薄雲のかかる松と紅葉の下で、飲食や音楽を楽しむ男女が描かれています。姿勢を崩し、重箱を枕にしたりと、思い思いにくつろぐ様子が微笑ましい。
室町時代、宮廷専属の四条、幕府専属の進士など、料理の流派が成立した。各流ともに権威付けのため、故実と称して秘伝の類を捏造し、「包丁式」をその最奥義とした。魚や鳥に尊卑の別をつけ、切り方や食べ方にまで正否を設けている。
権威のための嘘ってのは、どんな時代にもあるものですね。
《料理物語 1冊 江戸時代・寛永20年(1643)刊》
中世の料理書の形式主義から脱却して、料理の実用的知識のみを書き記している。文中には、鶏を煮込んだ汁物の「南蛮料理」もみられる。我が国で最初に、専門の料理人を対象として刊行された料理書で、近世料理文化の黎明を告げるにふさわしい名著である。
展示部分には材料名とその料理名が書かれている。例えば、鴨は「汁 骨ぬき いり鳥 生皮 さしみ なます こくせう くしやき 酒びて 其外色々」とある。こくせうは濃醤のこと。酒びては塩を加えた酒に浸すこと。
《式正包丁料理切形秘伝抄 3冊 江戸時代・17世紀刊》
寛永19年に、包丁流派である四条家園部流の高橋五左衛門尉又助らが、中村十右衛門に与えた料理秘伝書といわれている。徹底した権威付けがされた儀礼料理書で、料理法そのものよりも伝統と形式を重んじており、実用的な『料理物語』とは対象的な性格をもつ。
《料理献立集 1冊 江戸時代・寛文11年(1671)刊》
献立集として最古の部類に属する。「正月より十二月まで汁之事」以下、精進ものの吸い物、肴、膾、煮物などの献立から蒲鉾に用いる魚のことまで14項目について記される。アンコウの吊るし切りなどを描いた挿絵から、当時の調理や配膳の様子がうかがえる。
挿絵は、雁の包丁、鯉の背切り、アンコウの吊るし切り。
《精進料理素人庖丁 1冊 前川六左衛門他著 江戸時代・文政3年(1820)刊》
挿絵が多く楽しい料理書で、素人を対象として書かれた。初論には「ひたしものゝの類」などが列挙してある。序文によって、百姓家、町人の素人に通じ、日用手料理のたよりになるべきかと、献立の品々を分けて記したことが知らされる。
展示は「酢味噌之部」の頁。挿絵のお二人、何かやらかしちゃったのでしょうか。
《日用助食 竃の賑ひ 1冊 大蔵永常編 江戸時代・19世紀刊》
天明の飢饉以降、救荒対策の書物が出現するようになった。農学者の大蔵永常は、今年は気候が不順で、不作のため米価が高騰して生活が苦しいので、その助けになるように、わかりやすく記したとしている。一方では、世間で美食の風習が同時進行していた。
展示は「薩摩芋飯」の部分。
金薯、紫芋、甘藷 上方にて琉球芋、西国にて唐とう芋といふ
芋の腐りをよくさり、皮を去ず其儘(くさり多きは、皮をむくべし)いつも菜にたくより少し細く切、飯の吹あがる頃入て、塩も程よくいれ、蓋をして焚あげ暫くむし置、杓子にてかきまぜ食してよし。田家の此芋を作る所にては、此葉を取、きざみて日に干て、麦飯などの焚あげ頃上に置、塩を入、しばらくむしてかきまぜ食してよろし、米壹升に十六文分の芋をいれなば、四合のかはりはすべし
《尾張名所図会 前編第5 1冊 岡田啓他撰、小田切春江画 明治13年(1880)刊》
江戸時代末期、尾張国の御器所村(現名古屋市)は大根の産地で、藩の御用商人でもあった亀井家(屋号「萬屋」)は、この大根で沢庵造りを始めた・「萬太の沢庵の仕込み状況図」には、10月の末より翌春の正月まで行われた仕込みの様子が描かれている。
《料理屋にて武士2人酒宴をするの図(揚酒屋賑ひの図) 1枚 明治時代・19世紀》
酒を飲んでいる薩摩藩と長州藩の無事がお互いの苦労をねぎらっている風刺画。二人を中心に座敷の旦那と坊さん、店の板前、女中さんや、店を覗く人たちの会話を図中に取り入れている。店内の献立、会話をとおして、江戸の料理屋の賑わいが伝わってくる。
壁にお酒の銘柄が書かれています。
《七難七福図 巻第3 1巻 原在泉模写 明治時代・19世紀》
原本は、円満院の祐常が円山応挙に描かせた作品で、天災巻、人災巻、福寿巻の3巻よりなる。このうち福寿巻は、『酒飯論絵巻』などを参考に、江戸時代の公家の食の風景を描いたもので、祝宴や調理の場面などが臨場豊かに表現されている。
本作は模写したもの。円山応挙が描いた原本は、経典に説かれる七難と七福を描くことで、仏神への信仰心と善行をうながす目的で制作された絵巻。
本当にこんな格好で作業していたのでしょうか。袖などが邪魔でいかにも作業しにくそう。配膳には腰に刀を付けている人もいます。
《紅毛雑話 巻第1 1冊 森島中良編 江戸時代・天明7年(1787)刊》
森島中良は、蘭学者で、劇作家。将軍の待医で鬼の桂川甫周が江戸参府のオランダ人から聞いた話などを収める。このオランダ料理の献立は、大槻玄沢(1757~1827)が長崎で学んだ際、現地で食した料理の献立を筆記して持ち帰ったものである。
中庭の木々もだいぶ葉を落としました。
16室 アイヌと琉球 アイヌの飾り
《コンチ(頭巾) 2頭 北海道アイヌ 19世紀》
右《頭巾 1頭 樺太アイヌ 19世紀》
左《笠 1頭 民族名不詳 19世紀》
山担とは、近世の日本において、黒龍川下流域(現在、ロシア・アムール川下流域)を差し、山丹とも書く。山丹人が中国からもたらした美しい錦はアイヌ民族から松前藩に交易で渡り、蝦夷錦として珍重された。この傘も山丹人伝来とされる。
《マタンブシ(鉢巻) 1頭 北海道アイヌ 19世紀》
右《木綿衣 1領 北海道アイヌ 19世紀》
左《陣羽織 1領 北海道アイヌ 19世紀》
《アットゥシ(樹皮衣) 1領 北海道アイヌ 19世紀》
アイヌ文様が美しい。
17室とミュージアムショップの間、みどりのライオン 体験コーナーに顔ハメ看板がありました。こちらは光琳の風神雷神のパネル。
そして、埴輪踊る人々のパネル。
トーハクくんでなくても、東博の埴輪が喋ると語尾が「ほー!」になるらしい(笑
仕上げに、ゆりの木で白玉ぜんざいセット。
今回もトーハクを堪能しました。
年内、あと何回行けるかなあ。
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