江戸の凸凹 ―高低差を歩く@太田記念美術館 その2
太田記念美術館で開催中の「江戸の凸凹 ―高低差を歩く」展に行きました。
記事が長くなったので二つに分けました。
今回は後半です。行ったことがある場所については関連する写真を合わせて紹介します。
上野エリア
48《歌川広重 名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池 安政3年(1856)4月》
当時も桜の名所であった寛永寺境内。清水堂越しに不忍池が描かれている。画面左には月の松。
現在の清水堂。
月の松は明治初期に消失しましたが、2012年に再現されたものが今も目を楽しませてくれます。
51《歌川豊春 江戸名所 上野仁王門之図 明和7年(1764~72)後期頃》
上野広小路を描いたもの。前景に広場を横切るように不忍池から続く水路が流れ、その上を小さな橋が三つ架かる。両脇には料亭やお茶屋が並び、広場の奥には上野寛永寺の仁王門と上野の森が描かれている。
下は上野広小路方向を春日通りから撮ったもの。
実際は現在の不忍通りの交差点、ABAB上野店付近からの視点と一致するのでしょう。森の頂点部分が欠けています。
吉原・浅草エリア
14《歌川広重 江戸高名会亭尽 新吉原衣紋坂日本堤 播磨屋 天保(1830~44)末頃》
画中左寄りに描かれているのが見返り柳。つい最近散策したばかりだったので、印象深い。
melonpankuma-rakugo.hatenadiary.jp
53《歌川広重 江戸名所 真乳山猿若町金龍山 嘉永6年(1853)11月》
待乳山聖天の本堂の西側から女たちが南西方向にある猿若町の賑わいを眺めている。猿若町には、天保の改革によってこの地へ強制移転を命じられた歌舞伎や等の興行小屋が立ち並ぶ。画面左側の遠景に浅草寺の本殿と五重塔が見える。
現在は木立に邪魔されて、あまり街並みは望めません。
待乳山聖天は歓喜天(ガネーシャ)を祀った本龍院という寺院です。
なお、社殿の横に無料のスロープカーがあって駐車場まで続いています。
54《歌川広重 江戸八景 真乳山ノ秋月 天保14~弘化元年(1843~44)頃》
秋月の待乳山聖天を描いたもの。待乳山の麓には山谷堀にかかる今戸橋、隅田川の対岸の堤に三囲神社の大鳥居が頭を覗かせている。
吉原まで続いていた山谷堀、現在は埋め立てられて公園になっています。
今戸橋は欄干だけが残っていました。
三囲神社の大鳥居。
対岸から三囲神社方向を探してみました。矢印あたりに見えるはず。
高速道路の橋脚に隠れ気味でしたが、大鳥居の扁額を発見!
現在でも根性で探せば見えました。
56《歌川広重 江都名所 隅田川はな盛 天保(1830~44)中期頃》
桜の名所である隅田川向島岸を描いたもの。待乳山聖天と三囲神社を結ぶ人気の渡しとして知られた竹屋渡しがある。堤の上の青い旗があるところは山本屋の桜餅でも有名な長命寺、その先の空に鳥が舞う下、黄色で彩色されているあたりが三囲神社である。墨田川から堤に上がる階段が確認できる。画面左端は土手が出っ張っているように見える。
現在、隅田川の土手沿いに走る墨堤通り(ぼくていどおり)が、ちょうどこの辺りにある言問団子の前で陸よりに曲がっているのは、その名残でしょう。
竹屋の渡しがあった場所には、現在歩行者専用橋の桜橋が架かっている。
この橋を渡るとすぐに、長命寺桜もちの山本屋さんと、言問団子さんがあり、もう少し歩くと志満ん草餅さん。とにかく和菓子のおいしいエリアです。
日比谷・日本橋エリア
57《歌川広重江都勝景 山下御門之内天保(1830~44)中期頃》
山下門を背にして水鳥が群れをなす山下堀沿いから鍋島家上屋敷の朱塗りの門を描いている。
山下門は泰明小学校の近くのガード下、みゆき通りの終端に位置していました。
ガード下に案内板があった。
描かれたのは、現在の日生劇場と帝国ホテルの間付近から見た日比谷公園日比谷門方向です。
帝国ホテルに続くタクシー行列に視界を遮られるのが残念。
59《歌川広重 名所江戸百景 日本橋雪晴 安政3年(1856)5月》
雪の日、多くの人が行き交う日本橋が描かれている。橋上だけでなく川にも初荷の魚を運ぶ五大力船や高瀬舟で賑わう。画面右下には魚河岸、対岸には倉が建ち並ぶ。川上に見えるのは一石橋。遠景に江戸城と富士山が描かれている。
現在の日本橋。
当時の面影はというと、水の流れくらいでしょうか。
佃島・築地エリア
60《歌川広重 東都名所 佃嶋初郭公 天保2年(1831)頃》
多数の五大力舟が繋留された佃島の漁師村が描かれている。明け方の空には三日月が上り、郭公が飛ぶ。佃島は江戸時代初期に、今の大阪、摂津国佃村に住む漁師三十余人が隅田川河口の百間四方(約180平米)の干潟を拝領したことに始まる。誇張されてはいるものの、非常に狭い土地に家々がひしめき合っていたのが浮世絵からもわかる。
佃大橋からの眺め。
左端にある赤い鳥居が佃島住吉神社の参道です。
佃大橋の袂から漁師町の名残を眺めます。
私はこの通りの天安さんへ佃煮をよく買いに行きます。
なお、スライドトークでもネタにされていましたが、本能寺の変が起こったときに、家康の堺からの逃避行を助けたのが佃島の漁師で、その縁で江戸へ招かれたという話がありますが、それにしても与えられた土地がショボすぎます。この話はあくまで伝承。恩賞なんてものではなく、住めるなら住んでもいいよ程度の土地であったことは間違いありません。それを築島工事して人が住めるまでにしたのは、紛れもなく移り住んだ佃島の漁民達。むしろその方ががすごい逸話だと思います。
堀にかかるのは佃島のシンボル佃小橋。
橋の奥、クレーンが見えている方向に住吉神社があります。
お堀を工事中でした。
此の場所には 江戸時代後期
寛政拾年(一七九八年)
徳川幕府より建立を許された
大幟の柱・抱が 埋葬されて
おりますので立入ったり掘り
起こしたりしないで下さい。
佃住吉講
隅田川から見えた赤い神明鳥居です。
赤いのは船上からも目立つからでしょうか?
突き当りに佃島住吉神社があります。
社殿は向拝のついた拝殿がある権現造り。
お社の両脇に天水鉢があるところがお江戸流です。
屋根に千木と堅魚木があり、住吉造を意識してか床が低い。
古式な雰囲気が大変好みです。
佃島住吉神社は、他にも手水舎や鳥居の扁額、石造りの神輿庫等大変見どころが多いのですが、いちいち紹介すると限りがないので今回はこれくらいで。
近くからギェーギェーと鳥の警戒音。
どこだどこだと見回したら、かなり近くから二羽のカラスが飛び立ち、追い払うように三羽のオナガが飛んできました。私の動きが緊張を高めたようです。 お邪魔しました。
61《歌川広重 江戸百景餘興 鉄炮洲築地門跡 安政5年(1858)7月》
沖から築地御坊の大屋根が見える風景。前景に船の帆、中景の帆船の辺りには消波目的の石積みがある。堀に架かっていた明石橋は隠れて見えない。船や石積みの上で釣りをする人々。波消しの石積みの奥、石垣で囲まれた土地が明石町。
対岸の隅田川テラスからほぼ同じ角度で撮ってみました。
今つきじ治作があるところが鉄砲洲の先端。その隣は明石町ポンプ所。
写真右側に見える歩道の白いガード付近が明石橋でした。
京都西本願寺別院である築地御坊は瓦葺の入母屋造で、南西(築地場外市場側)を向いていました。浮世絵は築地御坊を裏から描いていることになる。その後関東大震災の火災で本堂が焼け落ち、昭和9年(1934)に伊東忠太が設計して古代インド様式でモチーフで再建。
平成24年(2012)に「築地本願寺」と改められて、現在、西本願寺の別院ではなくなり、全国唯一の直轄寺院となりました。
62《歌川広重 名所江戸百景 鉄炮洲稲荷橋湊神社 安政4年(1857)2月》
帆船の帆柱を前景に、赤い板塀の鉄砲洲稲荷神社と稲荷橋、遠景に富士山を描いている。前景を横切る亀島川と稲荷橋の架かる櫻川(八丁堀)の合流する手前の画面外に将監河岸があるため、荷を積んだ多くの川舟が行き交う。
南高橋を渡ったところにある徳船稲荷神社から浮世絵と似た雰囲気で撮ってみました。
二本の柱の間青みがかったビルとその右の白いビルのあたりに当時は鉄砲洲稲荷神社がありました。そのさらに右、緑の木立の奥に見えるベージュの壁が桜橋第二ポンプ所で、当時稲荷橋だったところに相当します。
桜橋第二ポンプ所の前に稲荷橋の欄干が残っていました。
鉄砲洲稲荷神社は当時より南西に移転しました。
鳥居前の狛犬がやたら味わい深い。
中国獅子、南獅のような雰囲気を感じました。
社殿は拝殿に唐破風のある権現造り。
本殿前の狛犬が猛々しくて立派。
それにしても鳥居も白いし狛狐もいないしで、全く稲荷らしいところがありません。浮世絵には赤い板塀が描かれていましたが、今はその気配すらない。この辺一体の生成(いなり)としての意味合いが強いようです。
本殿に向かって左奥に富士浅間神社があった。
溶岩で作られた立派な富士塚です。
胎内洞窟もある。
移転前の鐵砲洲稲荷神社にも広重が《江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣》で富士塚を描いている。
67《歌川広重 東都名所 永代橋深川新地 天保(1830~44)末期頃》
永代橋西岸上流側から眺めたもの。画面左手の中景が深川新地。橋上には天秤棒を担ぐ行商人や駕籠を担ぐ雲助、手ぬぐいを頭に巻いた町人が行き交う。風が強く、着物の裾がはためいている。文化4年(1807)、深川富岡八幡宮の祭礼に押しかけた群衆で大崩落事故が起きた。
永代と 掛けたる橋は落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼
太田蜀山
浮世絵に描かれているのは事故の翌年に架替えられたもの。橋桁は帆掛け船が下をくぐれるほど高い。画面右手に千石船が並んでいる。遠方から運ばれてきた荷物は隅田川河口で小型の舟に載せ替えて運ばれる。千石船の先に見える大きめの屋敷が御船手奉行の向井将監屋敷、さらにその奥に描かれているのは佃島か。とすれば、対岸は越中島である。
日本IBM本社近くの隅田川テラスから撮影した。現在の永代橋は当時より00メートルほど下流に架かっている。
現在お化粧直し中につき、鉄骨が覆われていて展望が悪いので、永代橋から下流の展望を撮影。
右手の高層ビル群が佃エリアで、越中島の間の埋め立てが進んで相生橋で繋がった上、その先に豊洲があるので、海までは見渡せません。ずいぶんと地形が変わりました。
深川・木場エリア
68《歌川広重 江都名所 深川富岡八幡 天保(1830~44)中期頃》
描かれているのは富ヶ岡八幡宮の境内。扁額が付いた石製の明神鳥居をくぐって参拝に行く町人の姿が描かれている。広大な八幡宮の敷地に広がる美しく起伏に富んだ庭園は名所のひとつであった。画面右に棕櫚の木、中央奥に小さく鳥居と弁天堂、そこから左に森を挟んで二軒茶屋やいせやといった高級料理屋があった。
一の鳥居は朱塗りの明神鳥居です。
当時と比べたら境内の広さは半分程になりましたが、それでも広々としています。
現在の社殿は昭和31年(1956)に造営された鉄筋コンクリート製の重層型準八幡造り。
派手です。しかし、すぐ近くにもっと派手な深川不動尊があるからこれくらいしないとね。
69《歌川広重 名所江戸百景 深川木場 安政3年(1856)8月》
夜、深々と雪の降り積もる木場の風景。お堀にたくさんの木材が浮かべられている。傘と箕をつけた筏師(川並)の姿。うち置かれた傘、子犬が乾燥中の木材を屋根にしている。
木場だった場所は現在ほとんどが木場公園になっている。浮世絵が描かれた地点がどこなのか不明。木場公園にほど近い平久川が木場の風景を残す親水公園になっていた。
川並の像。
71《歌川広重 江戸名所 洲嵜弁天の祠 海上汐干狩 弘化4~嘉永元年(1847~48)頃》
描かれたのは洲崎の先にあった吉祥寺別当洲崎弁財天。平野橋からまっすぐ伸びた参道を弁天様に詣でる人々が歩く。途中参拝客を相手に店が出ている。参道は土手で仕切られ、その先は遠浅の砂浜が広がっていた。境内手前まで堤が続き、その先に潮干狩りをする人々が描かれている。
今じゃ海岸線ははるか彼方。吉祥寺別当洲崎弁財天は洲崎神社と名前を変えました。浮世絵では広々と描かれていた参道も、今は狭い。
電信柱に隠れぎみですが、写真中央奥に森と神社の赤い鳥居が写っています。そこが洲崎神社。
社殿は唐破風のある権現造り。
吽形の狛犬。かまえ獅子なのが珍しい。
鳥居のすぐ近くにある波除碑。
寛政3年(1791)の高潮で深川洲崎一帯に多くの死者が出たため、幕府は洲崎弁天近くの土地を買収して居住を禁止した。幕府が買い取った土地の両端に建てたうちの一柱がこちら。
73《歌川広重 名所江戸百景 深川洲崎十万坪 安政4年(1857)閏5月》
洲崎の上空で翻る鳶を前景に、深川の広大な湿地を描く。遠景のつくば山以外にめぼしいものに欠ける土地を大胆な構図で捉えている。
現在の江東区千田付近の千田新田のことを当時十万坪と呼んでいた。こんな高い視点はとても得られないので Google Earth のお力を借りてみました。
当時は湿地帯。今もこの辺の標高は低い。
その他地域
74《歌川広重 名所江戸百景 市ヶ谷八幡 安政5年(1858)10月》
桜の季節、空には鳥が舞う。前景に市ヶ谷門と外壕、お堀に沿って街道がある。小高い丘の上に市谷八幡社。階段上に扁額のある明神鳥居、その左の赤い板塀が茶の木稲荷、鳥居の右に大きく市谷八幡の社殿が描かれている。画面左端で坂に赤い提灯のある張り出しは茶屋である。
現在の市ヶ谷橋の上から市谷亀岡八幡宮のある方向を撮影しました。
夕日が眩しい。画面中央、ビルの上にある赤い看板のある辺りが市谷亀岡八幡宮への参道です。
参道の階段を見上げると、今も坂の途中に市ヶ谷茶ノ木稲荷神社があります。
文化元年(1804)建立の銅鳥居。
扁額の八は向い鳩。
鳩は八幡宮のお使いとされているので、境内のあちこちに鳩モチーフがありました。
鳥居のすぐ近くの狛犬。越前禿型ですか?
インパクトのあるお顔。漫画太郎氏が描いてそう。
市谷亀岡八幡宮は、本殿が八幡造で唐破風付きの大きな拝殿が一体化した形式。社殿向かって左にある駐車場から眺めると大きな拝殿の後ろに同じ大きさの二つの屋根が確認できます。
神社建築の話で続けると、内にある茶ノ木稲荷神社は拝殿の裏に独立した瓦葺流造の朱塗りの建物が、参道の階段途中から見えました。
拝殿の棟の中心線にぴったり合ってるのでこれが茶ノ木稲荷神社の本殿らしい。
75《歌川広重 名所江戸百景 せき口上水端はせを庵椿やま 安政4年(1857)4月》
正八幡宮水神社別當境内にあった芭蕉庵を右手に神田川沿いの風景を描いたもの。画面外に続く神田川下流に関口大洗堰があった。
浮世絵に描かれている小高い丘は、現在永青文庫のある高台でホテル椿山山荘がその名前を残す。
76《歌川広重 名所江戸百景 千駄木団子坂花屋敷 安政3年(1856)5月》
画面下に描かれているのは今はへび道と呼ばれる暗渠になった藍染川である。千駄木駅から西に傾斜を上ると紫泉亭があった。
78《歌川広重 江戸名所 五百羅漢さゞゐ堂 天保(1830~44)後期頃》
かつて江東区大島にあった黄檗宗天恩山羅漢寺の境内に寛保元年(1741)に建立された三匝堂のこと。現在は下目黒に移った。現在江東区大島にある羅漢寺は曹洞宗で、明治期に奥多摩町から移転した祥安寺が昭和に改名したもの。
江戸鳥瞰図
隅田川東岸の上空から西方の地上を見下ろした鳥瞰図。遠景に富士山が描かれている。
スカイツリーから眺めると似た景色が望めると学芸員のスライドトークでありましたが、あそこは高度だけでなくお値段もお高い。ここはまたもや Google Earth という力技で。
この江戸の鳥瞰図は鍬形蕙斎の《江戸一目図屏風》等を参考にしたとされていますが、それにしてもすごい視点。宇宙人にさらわれた経験があるんじゃないかと疑います。
おまけ。
《歌川広重 名所江戸百景 深川万年橋 安政4年(1857)》
清澄の萬年橋から見た、化粧直し中の清洲橋。
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