江戸の凸凹 ―高低差を歩く@太田記念美術館 その1

2022年4月19日

王子エリアの予習をした翌日、太田記念美術館の「江戸の凸凹 ―高低差を歩く」展へ行きました。

www.ukiyoe-ota-muse.jp

本展は、愛宕山や駿河台などの山や台地、神田川など河川の周囲に広がる谷、築地や深川などの水辺に広がる低地、江戸見坂や九段坂などの坂といった、浮世絵に描かれた江戸の凸凹-地形の高低差に焦点を当てる展覧会です。現代の地形とのつながりも感じながら、江戸の町を散歩する気分で浮世絵を楽しんでみてはいかがでしょうか。

常日頃、都内の武蔵野断層沿いを中心にウロウロ過ごしている身です。こんなに興味をそそられる企画は他にありません。

しかも、公式からのツイにもあるように、作品リストに付いてくるスリバチ学会皆川会長による地形図がとてもわかりやすいのでした。

 

11時から行われる「学芸員によるスライドトーク」の前に、展示を少しは見ておこうと10時前に到着。
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入り口のシャッターが閉まっています。手前の案内板を見たら開館時間は10時半でした。

しょうがない。時間調整に東急プラザのスタバへ行きます。
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別にお腹は空いてなくても、目の前にしたらついつい食指が伸びる。シトラス&マンゴーのシブーストです。

開館時間になったので、改めて太田記念美術館へ。
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入館すぐに人の流れが地下の階段へ向いていたので、逆らわずに講堂へ。あっという間に会場は満席。立ち見が出るほどの人気企画でした。今回、美術好きだけでなく地理好きも相当来ている気がします。
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地形の話の他に、浮世絵の名所絵と同じ地点の現在を写真で比べてみたりと、スライドトークだけでも十分満足する内容でした。

今回、ほとんど展示会に出したことがないものもいくつか出ているそうです。芸術性はともかくも、テーマに沿えば観賞価値のあるものが多いってことのようです。わかるわかる。そういう視点が増えるから芸術ってのは楽しいんです。

以下、気になったものについてメモを残します。 実際に行ったことがある場所については関連する写真も一緒に紹介します。

江戸名所坂

1《歌川広重 東都名所坂つくしの内 牛込神楽坂之図 天保(1830~44)末期頃

牛込門に続く神楽坂を描いたもの。画面左手に武家屋敷、右手に団子屋などが建ち並び、通りには武士や町人など多くの人が行き交う。外堀りを挟んで遠景に牛込門がと江戸城の森が描かれている。

現在の神楽坂。緩やかな坂の起伏がそのまま残されています。
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牛込門は石垣がそのまま残されていました。

2《歌川広重 東都名所坂つくし之内 昌平坂御茶ノ水 天保(1830~44)末期頃

急峻な昌平坂の下に、相生坂と並行して流れる神田川が描かれている。遠景に富士山。

写真は昌平坂を上りきった所から撮影したもの。この付近は湯島聖堂の築地塀が続く。
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昌平坂を下りきったところ。
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浮世絵に描かれているとおり、相生坂に近いあたりで石垣だけになる。

5《歌川広重 東都名所坂つくしの内 伊皿子潮見坂之図 天保(1830~44)末期頃

浮世絵をよく見ると、坂の奥は階段状に手前は平らなスロープになっている様子がわかる。遠景の海は品川沖でしょう。

下の写真は現在の伊皿子坂。海は見えません。坂を下った先に見える高層ビルが品川シーズンテラスで、その手前に山手線の新駅(高輪ゲートウェイ駅)が開通予定です。
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この横断歩道を渡った先に豆大福で有名な松島屋さん、そして、さらに先に近々上皇様がお住まいになられる仙洞御所(旧高輪皇族邸)があります。

8《歌川広景 江戸名所道外尽 廿八 妻恋こみ坂の景 安政6年(1859)10月

ゴミ坂。湯島妻恋神社側に立爪坂のこと。坂の途中にある公衆便所が描かれている。「あけはなし たれかけ 無用」の張り紙や落書きのくだらなさ、今も昔も変わらない。遠景に浅草の五重塔が見える。 

7《歌川広重 名所江戸百景 虎の門外あふひ坂 安政4年(1857)11月

この辺は以前に巡りました。

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9《歌川広重 東都名所坂つくしの内 江戸見坂之図 天保(1830~44)末期頃

ホテルオークラの近く、菊池寛実記念館がある通りです。今はビルに囲まれてすっかり狭い空になっていますが、江戸後期には、江戸の街並どころか遠く海まで望める場所だったことがわかります。座って展望を楽しめるほどにのどかな階段だったようですが、今は片側が工事中な上、急な下坂でスピード出し気味な車が多く、写真を撮るのにも気が気じゃない場所です。
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10《歌川広重 名所江戸百景 八景坂鎧掛松 安政3年(1856)5月

大森駅山王口付近の坂は「笠島夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」の八景が望めることから、八景坂と呼ばれていた。

御茶ノ水・神田エリア

15《歌川広重 名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望 安政3年(1856)4月

湯島天神の東側、男坂を上り切って、女坂方向を眺めた図。現在、女坂に沿って梅園が広がっています。もちろん不忍池はビルに遮られて到底望めません。

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17《歌川広重 名所江戸百景 神田明神曙之景 安政4年(1857)9月

描かれたのが夜明けの風景であることから、神田明神境内の東、銭形平次の碑がある辺りから街並を眺めました。
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味気ない風景が広がっています。

浮世絵とは全く関係ありませんが、拝殿の屋根飾りがやたらとかわいかったので。
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この手の変なものが屋根にいるってことはと調べてみたら、やっぱり伊東忠太が絡んだ設計でした。好き。

18《歌川広重 東都名所 神田明神東阪 天保(1830~44)中期頃

神田明神の東側にある現在男坂と飛ばれている急な階段が描かれている。遠景に江戸の街並。井戸掘櫓が目立つ。当時上りきったところに茶屋があったようだが、現在は社務所や明神会館が建っている。江戸時代から残っていると云われがある男坂大公孫樹(イチョウ)は描かれていない。
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19《昇亭北寿 東都御茶之水風景 文化(1804~18)頃

昌平橋から現在の相生坂を望んだ風景。人工的に崖を切り開いて神田川を通したために断層が鋭い。トークショーで、東京スリバチ学会会長の皆川典久氏が関東ローム層が顕になっている様子をレッドクリフ(赤い崖)とおっしゃっていたと紹介がありました。絵を見ると赤土の壁がまさに。

下は現在の昌平橋からの眺め。神田川をまたぐのは総武緩行線の鉄橋です。
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関東ローム層の赤土はなく、旧万世橋駅高架駅舎の赤レンガがあるのみ。

王子・飛鳥山エリア

前日の予習が活かせます。

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25《歌川広重 飛鳥山花見の図 安政2年(1855)正月

画面中央に奥に富士山、左端に飛鳥山碑が描かれている。

現在は木立に囲まれて、到底展望は望めません。
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26《歌川広重 名所江戸百景 王子稲荷の社 安政4年(1857)9月

王子稲荷の拝殿を手前にして一の鳥居がある北東を眺めた絵です。遠景につくば山が描かれています。f:id:Melonpankuma:20190608202555j:plain

この浮世絵には社殿前にある立派な狛犬が描かれていません。
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他のところから持ってきたのかなと思い、他に広重が描いた王子稲荷がないかと調べてみたら《歌川広重 東都三十六景 王子稲荷 文久2(1862)》には狛犬が描かれていました。

そうかー、やっぱり当時からあの狛犬はあったのか。

27《歌川広重 江都名所 王子稲荷 天保(1830~44)中期頃

王子稲荷とその奥の森が描かれている。

浮世絵に描かれている薬医門と赤い板塀は現在も残されている。
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28《歌川広重 名所江戸百景 王子瀧の川 安政3年(1857)4月

前日に松橋弁財天洞窟跡に行きました。下の写真は下流から上流を眺めたもので、撮影した場所のすぐ左に北区の文化財説明板があり、29《歌川広重 東都名所 王子瀧の川 天保(1830~44)後期頃の絵があったので、てっきり写真右手側の河岸に弁天洞窟があったのだろうと思っていました。説明板には「現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました」と書かれていました。画面左の建物が都営団地で、その下に見える崖に滝があったのかと想像したのですが、28を見ると洞窟の位置が違う。実は、29共々、上流から下流を眺めた絵だったんですね。松橋と洞窟の位置関係にもようやく納得が行きました。説明板の設置位置も逆だし、浮世絵の遠近感にも騙されました。

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対岸から写真撮ればよかったー。

30《歌川広重 名所江戸百景 王子音無川堰埭世俗大瀧ト唱 安政4年(1857)2月

音無川下流から眺めた石堰と桜の景色を描いている。画面左に飛鳥山、石堰の奥に王子権現別当寺の金輪寺が見える。

こちらは石神井川の旧水路に作られた音無親水公園です。奥に見えるのは船串橋。
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その先に、都道445号線(旧岩槻街道)を通して音無橋が架かります。
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浮世絵に描かれた堰は広重の『絵本江戸土産第4編17 音無川の堰 世俗大滝と唱う』に「金輪寺の下の堰よりお落つるを、大滝といふ」とあります。江戸時代の金輪寺は現在の北区役所第二庁舎付近にありました。つまり、現在、音無川親水公園の親水エリアにある石神井川本流との分岐点に作られた水門あたりがかなり近い。
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水門があるなあと漠然と撮った写真。亀が甲羅干ししていたのしか印象に残っていません。f:id:Melonpankuma:20190609224057j:plain

古い写真を探してみたら、土木図書館の戦前土木絵葉書ライブラリーの中に、石神井川の上流側から見た音無橋の写真を見つけました。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/card/01_image/large/0113317.jpg
音無橋の手前に船を停める程の穏やかな流れ。まさに音無し。そこから下に水が落ちているのがわかります。きっと、これが王子大堰でしょう。

愛宕山・芝エリア

32《歌川広重 名所江戸百景 芝愛宕山 安政4年(1857)8月

強飯式の神事を終えた神官が男坂を上って愛宕神社へ帰ってきたところを描いたもの。愛宕山の男坂と言えば、曲垣平九郎が馬に乗って駆け上がり、家光公から馬術の名人と讃えられた逸話によって「出世の石段」と呼ばれている。f:id:Melonpankuma:20190611214624j:plain

人も思わず手すりを使うほどの急階段です。
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愛宕山は区内で最も高い山(標高 25.7m)です。今はビルや木立に遮られて見渡すことは出来ませんが、当時は江戸の街並が一望できたことでしょう。
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34《歌川広重 東都名所 芝愛宕山上之図 天保(1830~44)中期頃

画面手前に茶屋が並び、男坂を上りきったところに狛犬、その先に朱塗りの二重門が描かれている。遠景に江戸の街並と海。空に虹がかかる様子が描かれている。

下は現在の男坂を上りきったところ。
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石畳は浮世絵そのままで、坂のすぐ脇にあたご茶屋があります。浮世絵に描かれていた狛犬はなく、代わりにコンクリート製の一の鳥居があります。ちなみに、階段下に狛犬がいましたが、これは昭和に作られた新しいものでした。

余談ですけど、愛宕山の西側でNHK放送博物館の入り口近くにある階段(愛宕神社西参道)の方が、個人的にはエグいと思います。
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狭い上に曲がりくねって見通しも悪い。上りきっても特に出世するわけでもないので、絶望感が漂います。

愛宕トンネルの脇に登り口がありますので、ご興味のある方はどうぞ。
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35《歌川広重 江都名所 芝増上寺 天保(1830~44)中期頃

前景に増上寺の三解脱門、画面左端に総門が描かれ、遠景に街並と海を望む。

徳川家の菩提寺である増上寺。浮世絵には三解脱門や五重塔がよく描かれ、本堂である大殿が描かれることはめったにありません。大殿も立派なんですけどね。
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三解脱門は元和8年(1622)建立、五間三戸二階の二重門で左右に山廊がある。

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三解脱門を背に、当時総門があった方向を撮影。
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現在は大門と呼ばれています。
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昭和に入って従来の意匠のまま高さを1.5倍にして作られたというコンクリート製。扉なしの高麗門で左右に袖塀が付いている。
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36《歌川広重 名所江戸百景 増上寺塔赤羽根 安政4年(1857)正月

増上寺五重塔を前景に赤羽橋の架かる古川を描いたもの。

五重塔は現在の芝公園丸山古墳に建てられていたとみられている。奥に見える森は方角的に、今は有栖川宮記念公園がある広尾の森でしょう。丸山古墳山頂からなら近い角度で写真が撮れそうな気がしますが、現在の古川は上に高速道路が走っているので、上から望むことはできません。
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37《歌川広重 江戸名所 芝増上寺前の景 弘化4~嘉永元年(1847~48)頃

前景に将監橋が架かり、増上寺境内を縁取る古川と桜川水路が描かれている。桜の季節、遠景に丸山古墳(都内最大の前方後円墳)の森と増上寺の五重塔、右端に増上寺が描かれている。

下は、現在の将監橋の手前から増上寺方向を撮ったもの。
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上を高速道路が走っているので、ほとんど見通しがききません。

38《歌川広重 名所江戸百景 広尾ふる川 安政3年(1856)7月

古川に架かる四の橋(相模殿橋)を下流側から描いたもの。今は古川の上に高速道路が走っているため。このような眺望は到底望めない。広がる原野は広尾の原(土筆ヶ原)。画面左の建物は「狐鰻」という有名店で、『江戸前大蒲焼番付表』には世話役として名前が上がっている。

目黒エリア

39《歌川広重 名所江戸百景 目黒爺々が茶屋 安政4年(1857)4月

爺々が茶屋は落語目黒のさんまの舞台。恵比寿ガーデンプレイスからアメリカ橋を渡り山手通りに抜ける道が新茶屋通りと呼ばれている。新ではない元の茶屋通りはどこかというと、新茶屋通りの途中で細道が分岐して茶屋坂に繋がっている。分岐した細道はしばらく新茶屋通りと並行して進み、突き当たって左に折れて下る。そのL字に折れたところが茶屋の位置だったという。当時は東西に水路があった。

茶屋から下った坂はまたもや折れる。
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コーナーに案内板がある。
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40《歌川広重 名所江戸百景 目黒千代か池 安政3年(1856)7月

肥前島原藩松平主殿頭下屋敷内にあった千代が池に落ちる滝を描いたもの。桜の咲く急斜面に勢いのある滝。水面に木立の影が写るところに西洋画の影響が感じられる。

池があった場所には、現在目黒台マンションが建っている。
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41《歌川広重 名所江戸百景 目黒新冨士 安政4年(1857)4月

桜の季節、富士を遠景に相似形の富士塚が描かれている。富士塚の頂上で眺めを楽しむ人、麓には桟敷が設けられている。塚の手前に水の流れ、奥に道がある。富士講が盛んだった当時、目黒には二つの富士塚が築かれたため、目黒新富士と区別して呼ばれた。

目黒新富士は現在の目黒区中目黒2丁目にあったが今は残っていない。富士塚があった場所に目黒区立別所坂児童遊園がある。ただでさえ急な別所坂から、さらに角度のある階段が続く。
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公園にはさらに高台が設けてある。
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富士山の方向に展望が開けている。冬なら見えそう。
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新富士の遺構として「南無妙法蓮華経」「小御嶽」「吉日戌辰」の銘のある石碑が残されていた。
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なお、目黒新富士は文政2年(1819)年に築造されたそうで、今年でちょうど200年。めぐろ歴史史料館では記念イベントとして目黒の富士塚・富士講資料という企画展が開催されています。
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常設展には目黒新富士の近くで発掘された胎内洞穴の展示があった。
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42《歌川広重 名所江戸百景 目黒元不二 安政4年(1857)4月

目黒にあった三つの富士塚の一つで、目黒元富士には山腹に一本松が描かれる。

現在の代官山交番交差点から南に下る傾斜地にあったとされるが、今はビルや木立に遮られて見渡せない。
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目黒元富士には浅間神社がありました。現在は上目黒氷川神社境内に末社として遷されています。
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元富士の築造に携わった「丸且講」の印が残る手水鉢、奥に見える富士形の石碑も元富士にあったもの。
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代官山で展望が開けているところといえば西郷山公園。
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矢印で示したところに、天気が良ければ当時目黒元富士から見えたものと同じ富士山が見えます。

 43《歌川広重 江都名所 目黒不動詣 天保(1830~44)中期頃

目黒不動尊(龍泉寺)境内の絵。正面に仁王門、その左に千百有余年涸れずに流れると云われる独鈷の滝、仁王門の奥に男坂と本堂の屋根が描かれている。

下は、仁王門の横から本堂に続く男坂を撮ったもの。
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男坂の左手に独鈷の滝がある。
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目黒不動尊は狛犬が獅子ではなくて戌です。
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ちなみに、こちらは三囲神社のコンコンさん。f:id:Melonpankuma:20190616090356j:plain
どこか通じるものがあるように思ったけど、阿型の方は全く似ていません。

melonpankuma.hatenablog.com

 

男坂を上ると社務所や手水舎があり、本堂へはさらに大きな階段を上る。
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品川・御殿場エリア

46歌川広重 名所江戸百景 品川御殿やま 安政3年(1856)4月

安政元年(1854)から始まったお台場建設のために削られた御殿山の岩肌が描かれている。

御殿山の崖を下る小道は、今の御殿山通り(御殿山庭園の南側)だろう。削られて新たにできた平らな土地は、後に明治政府が接収して線路を通したため、現在は東海道線が走る。
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御殿山というとついつい御殿山トラストタワーのある方に行きたくなるが、北側の旧伊藤博文邸や岩崎家別邸(開東閣)のある方が当時の雰囲気をより残している。
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47歌川広重 名所江戸百景 品川すさき 安政3年(1856)4月

洲崎(すざき)は、以前に兜島とよばれていた地で、目黒川河口の砂洲である。絵には、洲崎の先端にあった洲崎弁財天堂や、洲崎と品川宿に架かる鳥海橋が描かれている。画面右の遠景に、安政元年に行われた台場建設の様子が見える。角度的に第四砲台あたりか。

当時、鳥海橋があったところから撮影。今も漁師町の雰囲気が残る。
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洲崎弁財天堂は明治期に利田(かがた)神社と名前を変え、今に残る。
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今の御殿山からはとても昔の洲崎までは見えません。
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品川神社の富士塚から北東の眺め。左の緑ぎりぎりが洲崎弁天のあった方角。
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第四砲台は現在のシーフォートスクエアに台場の石垣が残っている。
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あまりにも長くなって記事をまとめるのに飽きてきました。後半はまた後ほど。