出雲大社:出雲詣 その3
出雲大社旧参道(現、神迎の道)の古くからあるお宿に泊まりましたところ、朝早くからお隣の家族連れの足音で起こされました。木造なので直に隣の物音が響くわけです。目が覚めたのを幸いと早朝参拝に出かけます。
朝日を浴びる勢溜。一対の立灯籠に社号標、そして二之鳥居(勢溜大鳥居)。
二之鳥居は、新日鉄住金の耐候性コルテン鋼に重防食橋梁C-5塗装系を施された明神鳥居。頑丈です。黒皮が朝日に輝きます。平成の大遷宮の一環として2018年に建て替えられました。
大きな灯籠は竿までが石で中台より上は木製で、銅板葺の切妻屋根です。
鳥居をくぐって振り返る。
遠く、神門通りの先に一之鳥居(宇迦橋の大鳥居)が見えました。
鳥居の脇に兎の石像があった。
さほど興味がないので一々撮らなかったが、ここの他にも出雲大社境内のいたるところで似た兎像が見つけられる。これも平成の大遷宮の一環として設置されたもので、大国主が因幡の白兎を助けた神話に基づく。
- 出雲大社境内図
- 祓社
- 相撲場
- 野見宿禰神社
- 杵那築森
- 祓端
- 松の参道
- 勅使館
- 御慈愛の御神像
- 社務所
- 手水舎
- ムスビの御神像
- 会所
- 銅鳥居
- 神馬神牛像
- 拝殿
- 四拍手
- 庁舎
- 八足門
- 楼門
- 西一九社
- 氏社
- 本殿
- 西の拝所
- 彰古館
- 素鷲社
- 文庫
- 御向社・手前社
- 釜社
- 東一九社
- 宝物館
- 命主社
出雲大社は、『延喜式神名帳』に「出雲国出雲郡大一座 杵築大社 名神大」として熊野大社と並んで記される古社である。古代より杵築大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、明治4年(1871)に出雲大社(いづもおおやしろ)に改称した。一般的には「いづもたいしゃ」「いずもたいしゃ」と読まれる。
ふと気になって、公式サイトのドメインを確認してみると izumooyashiro の文字が並んでいた。
では、izumotaisha だと、どこがドメインを持っているんだと思って調べると、常陸国出雲大社が所有していた。
常陸国出雲大社は、島根県の出雲大社の御祭神を分霊して祀っているが、永谷園とのタイアップ企画を巡って揉めた挙げ句、本家出雲大社から2014年に独立している。本家よりも通りのよいドメインを取るとは商売上手だなと思った次第。
出雲大社境内図
境内の広さは約18万平米。勢溜からお社まで直線距離で500メートルと、相当な広さがあります。昭和の単位で言うと4東京ドームです。
参道を下ります。
二之鳥居のある勢溜が一番高くなっているため下り参道です。珍しい。
祓社
はらえのやしろ。銅板葺切妻造妻入り、外削ぎの千木に三本の鰹木。切懸魚。注連縄と紙垂が飾られている。
御祭神は祓戸四柱の神(瀬織津比咩神、速開都比咩神、気吹戸主神、速佐須良比咩神)で、黄泉の国から帰還した伊耶那岐命が禊をした時に化成した神々である。
多くの神社で6月の大祓の際に唱えられる、大祓祝詞(おおはらえのことば)では、国土に生じた天津罪・国津罪等を、天津神・国津神が祓い清めるという。清められた全ての罪は、速川の瀬にいる瀬織津比咩が大海に持ち出し、多くの潮流が渦巻くところにいる速開津比咩が罪をがぶがぶと飲みこみ、さらに気吹戸主が根国・底国に息で吹いてしまい、速佐須良比咩が持ちさすらい、どこともしれない場所に持ち去って封じる。こうして、この世に罪という罪は一切なくなると、唱えられる。
出雲大社の参拝者はここで身心を祓い清めるのが習わしです。
相撲場
野見宿禰神社
御祭神の野見宿禰は第13代出雲國造の襲髄命(かねすねのみこと)の別称。『日本書紀』垂仁天皇の時代、大和国にいた当麻蹶速(たいまのけはや)という天下一の力人との御前相撲に勝ったことが記され、相撲を始めスポーツを志す人々に篤く信仰されている。
銅板葺切妻造妻入り、外削ぎの千木に三本の鰹木。梅鉢懸魚。注連縄と紙垂が飾られている。
杵那築森
杵那築森
『出雲国風土記』(七三三)の「杵築の郷」条には「天の下の国造りをなされた大國主大神のお住いを、たくさんの尊い神々がお集まりになって築かれた。そこで、この地を杵築という」と、この郷の地名由来を記しています。
この森は、その神々のお集いの故地ともいわれ、また高大なお住いの神殿造営に際して、土地・木組みを付き固めるための要具である「杵」を、お住いの盤石を祈り埋納した処と伝えられています。祭日 四月三日 十月一日
森を祀ってあるため、お社がない。
祓端
下り参道を通り素鵞川を渡る。
擬宝珠のついた赤御影石の橋。撮りそこねて、欄干の写真しかなかった。
松の参道
松並木の間に三之鳥居(中の鳥居)がある。
二之鳥居と同じく、こちらも新日鉄住金の耐候性鋼製の明神鳥居。
笠木は五角形。
鳥居の後ろに石灯籠と石橋がある。
昔はここにも水の流れがあったようだ。
勅使館
天皇の勅使を迎える建物で勅使専用の斎室を備えている。銅板葺平入の入母屋造の母屋に棟高がやや低い妻入り切妻造りが組み合わさった構造で玄関の庇は唐破風である。大正10年(1921)の竣工で、設計はご存知伊東忠太。懸魚や笈形に細やかな装飾が入っている上、鬼瓦から飛び出した鳥衾が丁髷のよう。近くで観られないのが残念だった。
御慈愛の御神像
社務所
手水舎
銅板葺切妻造の四方吹き放ち。丁字の柱で四方転び。熊野大社の手水舎も同じだったので、出雲地方に多い形式かもしれない。
ムスビの御神像
会所
重要文化財指定。檜皮葺入母屋造、板壁で向拝一間、江戸中期(寛文7年)の建造物で、集会所として用いられていた。
銅鳥居
荒垣の入り口に銅鳥居がある。
江戸中期の寛文6年(1666年)に造られたもので、 重要文化財に指定されている。毛利輝元の孫綱広(長州藩2代目藩主)の寄進で、銅鳥居としては最古のものだという。
笠木の反りが穏やかな銅製の明神鳥居。柱に銘文が刻まれている。
真ん中あたりに「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と読める。素戔嗚命が雲陽の大社の神であるという意味。出雲大社の御祭神は、創立当初は大国主大神であったが、平安中期頃から江戸時代前期にかけての数百年間、素戔嗚命であったと言われている。
神馬神牛像
神牛には学力向上、神馬には子宝・安産の御利益があるそうですよ。 撫でられて、どちらもお鼻がテカテカに光っていました。
拝殿
銅鳥居をくぐると、八雲山を背に壮大な拝殿が目に飛び込んできます。
昭和25年の遷宮時に発生した火事の後、昭和34年(1959)に再建。檜材を使った戦後最初の大規模木造建築。銅板葺切妻造の右寄りの妻入りで大社造を意識したものになっている。千鳥破風の向拝がつき、重さ1トンい及ぶという大注連縄が飾られている。
設計は神社建築学の福山敏男博士。
平成の遷宮で御本殿の改修工事をしている間は、ここに御祭神が遷されて仮殿となった。二拝四拍手一拝で拝礼します。
四拍手
出雲大社の拝礼作法が、他の神社とは違う「四拍手」であることはよく知られています。
多くの神社ではよく「二礼二拍手一礼」で拝礼すると言います。これの元になっているのが、昭和23年改定の「神社祭式行事作法」で、祝詞奏上の作法として「再拝祝詞奏上再拝二拍手一拝」と定めたものの後半部「再拝二拍手一拝」を、神社が一般参詣者に説明しているようです。
私の場合、拝殿の前での動作を全て書くと「一揖賽銭鈴振二礼二拍手祈念一礼一揖」の流れですが、祈念を最後の一礼の間や一礼後と指導するところもあるようです。個人的には、神様への畏敬と祈る心が大事と思っているので、お作法の些末に拘る意義を見い出せていませんが、その神社が推奨する作法に従うのが心理的にも穏やかにすごせるので(郷に入っては郷に従えの精神)、お作法に特別な決まりがある場合はそれに従います。
出雲大社での参拝は四拍打つということなので、一揖を前後に挟んで「一揖二礼四拍手一礼祈念一揖」にすればよいんだろうと思ったら、実は「一拝祈念二拝四拍手一拝」なんだとか。まさか祈念のタイミングが違うとはね。
庁舎
庁舎は社務所や宝物の展示場として使われてきた施設。
拝殿同様、元の庁舎は昭和28年の火事で焼失。昭和38年(1963)に菊竹清訓の設計で竣工し昭和のモダンとして第15回日本建築学会賞を受賞した建物だったが、老朽化が進んだことから、2019年に新庁舎が建て直された。
奥に見えている国旗掲揚台は高さが47mあり、国内最大の日章旗が掲げられている。国旗の大きさは畳75枚分、重さ50キロに及ぶ。
拝殿の裏に回ります。
正面が御守所。右手前が拝殿で、朝の時間はここで御朱印を受け付けていました。
八足門
拝殿の背後に左右に回廊が伸び瑞垣と繋がる。中央に八足門がある。
三間一戸、檜皮葺切妻造 、両側両脇塀付属。階段下の赤丸を三つ組み合わせた印は、2000年に発見された遺構に基づく宇豆柱の痕跡。遺構発見当初、出雲大社宮司の千家が所蔵する鎌倉時代の『金輪御造営差図』と一致したということで、鎌倉時代に高さ16丈の超巨大建築物があったと断定するようなニュースが出回ったのは記憶に新しい。
八足門の前で本殿に向かい、二拝四拍手一拝で拝礼します。参考までに、正月五日は八足門が開放されて楼門前まで入れる。
蛙股の瑞獣や頭貫の流水文といった彫刻を手だけたのは左甚五郎ではないかと云われている。左右の板壁、提灯、賽銭箱に神紋「二重亀甲剣花角」が入っている。
本殿により近い八足門で拝礼できるなら一般参詣者にとって拝殿の意味はあまりないような。
元々は神楽殿のような存在だったのかもしれないと思ったが、明治8年『出雲大社修繕ノ儀伺』にある出雲大社絵図にも拝殿と記されていた。もちろん、祭礼や特別拝礼の時にはこちらを使うので意味がないわけではないのだが、外拝殿のような存在だなあと思った。
瑞垣も重要文化財、延享元年(1744)建立、檜皮葺で北面中央門を含む、一周百十五間。
楼門
玉垣の隙間から楼門を覗く。
重要文化財、寛文7年(1667)建立、三間一戸楼門で檜皮葺入母屋造。
楼門左右に神饌所。重要文化財、延享元年(1744)建立、桁行三間の檜皮葺入母屋造妻入。
玉垣も重要文化財、寛文7年(1667)建立、檜皮葺で北面中央門を含む一周約八三間。
玉垣の左に回り込んで摂末社を巡る。
西一九社
瑞垣の東西に配される細長い建物。八百萬神の遙拝所で、神在祭の際には神々の御宿社となる。
延享元年(1744)建立、檜皮葺切妻屋根の一九間社流造。
旧暦10月の神無月に全国の八百万の神々が出雲に集まとされ、出雲では神在月と呼んで出雲の各神社では「神迎祭」が執り行われる。この伝承は中世以降に起り、出雲の御師が全国に広め伝えたとされている。
神無月の「無」は「の」にあたる連帯助詞で、本来、秋祭りの時期にあたることから「神の月」という意味である。梅雨の6月を「水無月」と呼ぶ理由も同じ。
江戸初期、寛文4年(1664)の造営直前に描かれたとされる『紙本著色杵築大社近郷絵図』には、一九社が描かれていない。
氏社
手前は宮向宿祢、奥に天穂日命が御祭神。どちらも出雲国造の祖として祀られている。
共に寛文7年(1667)の建立で、梁間一間、向拝一間の檜皮葺切妻造。
本殿
瑞垣越しに本殿を観る。
手前は筑紫社で重要文化財。檜皮葺切妻造妻入葉隠一間、外削ぎの置千木で鰹木三本。
御祭神は大国主大神の御妻の多紀理毘売命で、天照大御神と素戔鳴尊とのご誓約で化成した女神。宗像三女神のうち第一の女神。
瑞垣をさらに回り込んで北西から本殿を眺める。
瑞垣を北に回ると、本殿に一番近づける。高さがあるので、他の神社と比べると本殿がよく見える。
国宝。大社造、階隠(きざはし)付、檜皮葺の屋根に外削ぎの置き千木、三本の鰹木がつく。千木などを覆う銅板にはエゴマ油、松ヤニ、鉛などを混ぜた「ちゃん塗り」が施されている。
西の拝所
出雲大社の御祭神は西向きに鎮座されていることから、瑞垣の御祭神と向き合う位置に拝所が設けられている。
御祭神大國主大神のお鎮まりになる御本殿の正面は南向きですが、殿内の御神座は西向きとなっています。
昔よりご参拝の皆様は大神様に向合御神座正面から拝しております。
先ず御本殿正面で御拝礼の後 瑞垣に沿って摂末社を参拝され、御神座正面に当たる此の場所より再度心を込め拝礼なさいます。どうぞ御拝礼下さいませ。
出雲大社「拝礼作法」
二拝四拍手一拝
本殿と御神座の向きが異なる神社としては他に鹿島神宮がある。鹿島神宮は本殿が北向きで御神座が東向きになっている。本殿が北向きなのは東夷からの脅威を抑えるためと云われるが、御神座が東向きである理由は不明。出雲と鹿嶋が一対になっていると考えることもできるし、どちらも大海を向いていると考えることもできる。他の大社造の神社がどういう向きで建っているかを調べると面白そうです。
彰古館
本殿の北西方にある宝物館の一つ。
有形文化財。木造二階建の銅板葺入母屋造で一間切妻造の玄関がある。一階よりも小さくした二階には刎高欄を廻らすなど社寺建築の要素が取り入れられている。
素鷲社
八雲山の麓に祀られ、摂社の中でも特別な扱いがある。
御祭神は素戔嗚尊。天照大御神の弟神で、出雲国の肥河上での八岐の大蛇退治の神話がよく知られる。大国主大神は、『古事記』や『日本書紀』ではそれぞれに、素戔嗚命の六世、七世の孫と書かれている。
重要文化財。社殿は大社造で、檜皮葺切妻屋根に外削ぎの置千木と三本の鰹木がつき、一間の切妻造の階隠がつく。
出雲大社境内にある11摂末社のなかでも特別な神社で、前々回の遷宮ではここが御祭神の仮殿となった。
お社の床下に砂箱があります。
出雲大社の「よくある質問」にこうあります。
「御砂」を持ち帰ることができる御社はどこですか?
瑞垣の外、御本殿後方の八雲山裾に鎮座の「素鵞社(そがのやしろ)」です。この御社殿の床縁下の御砂をいただき帰って御守としたり、また屋敷の土地、あるいは田畑に撒き清めて神様のご加護をいただくという信仰が古くからあります。
これは、ただいただいて帰るだけではいけません。まず、日本海に臨む稲佐の浜(出雲大社より西へ約800メートル)の浜辺の砂を掻き採って素鵞社をお参りし、稲佐の浜で搔き採ってきたその砂を床縁下に置き供え、そして、従来からある御砂をいただいて帰るというものです。
前日に稲佐の浜で採集した砂。
もちろん頂いて帰ります。
こういう砂箱が用意されていたり、西の拝所が設けてあったり、ペットも一緒に入れたりと、出雲大社は何かとリベラルな気がしました。権威を守るためやクレーム対策で禁止事項が増える一方の世の中で、駄目なことは駄目とバウンダリーをうまく設けているところが素晴らしい。
上でも参考にした寛文4年(1664)の『紙本著色杵築大社近郷絵図』を眺めたら、現在、素鵞社のある場所に本殿よりも大きな建物が書かれていてぎょっとしました。
これは素鵞社でなはくて出雲国造北島家だという。
そう言えば、この時代に杵築大社(出雲大社)の御本殿にお祀りしていたのは素戔嗚命でした。特別に祀られて当然か。
文庫
寛文7年(1667)建造の図書館。
寄せ棟造で栗板の栃葺、内部は中央が土蔵造で和漢書などの架蔵部屋、その左右が畳敷きの閲覧部屋になっている。元は彰古館付近にあったのを移築した。
御向社・手前社
背後からのシルエットでしか写真がありません。
左から、本殿、御向社、天前社。御向社、天前社は共に重要文化財で、檜皮葺切妻造妻入葉隠一間、外削ぎの置千木で鰹木三本。
御向社は大神大后神社で、御祭神は須勢理毘売命。素戔嗚命の御娘神で大国主大神の嫡后。
天前社は神魂伊能比賣神社で、御祭神は蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)・蛤貝比賣命(うむぎひめのみこと)。大国主大神が八百神の災難で大火傷をした時に治療を行ったことから看護の神として尊ばれている。
釜社
御祭神は宇迦之御魂神。素戔嗚命の御子神であり、いわゆるお稲荷さんとして全国で広く祀られている。
重要文化財。檜皮葺切妻造、向拝一間、妻入。
東一九社
宝物館
神祜殿は昭和56年(1981)、建築家菊竹清訓氏の設計により竣功。
「平成の大遷宮」を記念した改修工事により、2017年にリニューアルした。
玄関横には古代本殿の心御柱を再現したもの。
玄関に置かれた銅製大砲(左:神風砲、右:稜威砲)。
天正8年(1580)の遷宮に際し、毛利輝元が建立した銅鳥居を、弘化2年(1845)に八代松江藩主松平斉貴が大砲に鋳造した。
内部は撮影禁止。古代御本殿心御柱の実物の他、古代御本殿の模型、数々の日本刀の名品、本殿天井に描かれている八雲之図のレプリカなどが展示されていた。
命主社
神魂伊能知奴志神社命主社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ)といい、檜皮葺切妻造妻入葉隠一間、外削ぎの置千木で鰹木三本。
御祭神は神産巣日大神で、大国主大神が八十神からの迫害を受けられて生死の境にあるとき、幾度もお救いになるなど、大神の国づくりの大事業をことごとくお護りになっています。
手前にある椋木は推定樹齢1000年という巨木で、幹周5. 90m、樹高23m、根周りは12mに及ぶ。出雲市指定の天然記念物。
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