出雲国造:出雲詣 その10
出雲国造
出雲大社と必ずセットで語られる出雲国造(いずもこくそう)。元は出雲国を強大に支配した豪族で、代々出雲大社の祭祀を受け継いでいる。国譲りに応じた大国主神を祀るために天日隅宮の祭祀を担った天之菩卑能命(あめのほひのみこと)を始祖とする。
大化の改新以降に全国の国造制が縮小された。それでも、しばらくは出雲国造が意宇郡司職を務めることを認められていたが、和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が出雲国守に任ぜられたのを期に、出雲国造は出雲郡杵築郷に拠点を移して、出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられている。
出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は一子相伝であったが、南北朝時代における56代の後継者問題で、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれてそれぞれが出雲国造を名乗り、月交代で平等に職務を分担するようになった。明治政府が第80代出雲国造の千家尊癖氏を出雲大社大宮司に任命してからは、千家国造家が宮司を務める。
千家氏と北島氏は明治時代に入って、それぞれ出雲大社教と出雲教という神道系の宗教団体を立ち上げた。
出雲大社教
出雲大社境内の西、庁舎の左側に回ると千家国造館がある。
出雲大社教は、明治6年(1873)、当時の出雲大社大宮司の千家尊福が創設した教団で、大国主大神を祀り、出雲大社の職員が教職員を兼務している。
風調館
元は千家国造家の大広間として使われていたもので、出雲大社教が設立されてからは神殿として、現在は国造家大広間、出雲大社と出雲大社教の神楽殿として利用されている。
昭和56年竣工。大注連縄は長さ約13メートル、重さ4.5トンに及ぶ。
出雲教
出雲大社境内の東、宝物館の奥に北島国造館へ道がある。
出雲大社と北島国造館の間を流れる能野川。
寛文の造営時に整えられた石垣と荒垣に囲まれ、当時の景観をそのまま伝えている。
北島国造家四脚門
一間一戸のこけら葺切妻造り。かつて大社本殿の後方の八雲山山麓にあった北島国造家は、寛文の造営時に現地に屋敷替えされた。この四脚門も屋敷と共に移築されたと考えられ、寛文造営以前の江戸時代初期の建築様式を伝えるものとされている。
出雲教由緒
出雲教は、天穂日命(神代の昔出雲大社創建のとき御神勅により大神様に神勤奉仕された天照皇大神の第二の御子神)の正系の子孫出雲国造北島家に伝わる祭祀の道を通して大国主大神の御神徳を広く世に広めることを主たる目的とする神道教団です。
教団としては明治十五年、出雲大社の祟敬講として設立された「出雲北島教会」に始まり、戦後昭和二十七年に宗教法人「出雲教」として認証を受け今日に至っています。
出雲教は幽事そつかさどられる大国主大神様にお仕えしお祈りするという出雲大社創建の精神を基としています。そして出雲大社という神社と、その御神徳と拡める教団としての出雲教を区別し、北島国造館に総本院を置いて全国各地に分院教会を設け布教活動を行っています。
御神殿
寛永造営時の屋敷替えで建立された拝殿や庁舎は明治期に焼失。その後に、現神殿が建てられた。
青々とした芝が広がる。
庭園の奥に池があり、その周りに摂末社が祀られている。
大門
瓦葺きの切妻造四脚門。安政6年(1859)に奉献されたもので、嘉永元年(1848)以来、灘分の龍神講社から大注連縄の奉納が続けられている。
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