天孫降臨伝承地:日向三代を巡る旅 その1

2022年4月19日

今月15日から東京国立博物館で開催される「出雲と大和」展の予習として、昨年は記紀をテーマに鹿島・香取、伊勢、出雲に出かけ、年末に日向三代を巡る旅に出かけた。

 

旅行プランを練る上で、日向三代の話、いわゆる日向神話をテーマにすると絶対にぶつかる壁「果たして天孫降臨の地はどこなのか」をまず解決しないといけなくなった。つまるところ、有力視される二ヶ所、西臼杵の高千穂町と霧島連峰の高千穂峰の両方を回るだけの時間的余裕がないのである。そこで、どちらがより私の興味を掻き立てるか検討することになった。

前もって書いておく。もちろん、記紀に書いてあることが史実であるとは私も思っていない。しかし、記紀制作時に想定した場所があったことは間違いなく、それがどこなのかを調べるという話。

天孫降臨伝承地に日向を陽当たりのよい土地と解釈した筑紫説などもあるのは承知しているが、今回それは横に置いておく。なぜなら、宮崎空港行きの飛行機のチケットを取ってしまっているので。

 

天孫降臨

天孫のニニギノミコトが、アマテラスの神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために、高天原から「筑紫の日向の高千穂」へ天降ったこと。

古事記では「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」と記され、日本書紀では「日向の襲の高千穂の峰」「日向の高千穂くじふるの峰」「日向のくじひの高千穂の峰」「日向の襲の高千穂くじひ二上峰」「日向の襲の高千穂そほりの山峰」と複数箇所で書かれている。

筑紫と日向

「筑紫」は古くは九州全域を示す。『古事記』の国産みでは筑紫島は大きく筑紫、豊国、肥国、熊曽国の4つの国に分けられている。

次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。

 

次に筑紫島を生んだ。この島もまた、身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。すなわち、筑紫国を白日別(しらひわけ)といい、豊国を豊日別(とよひわけ)といい、肥国(ひのくに)を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曾国を建日別(たけひわけ)という。

 

「日向国」は7世紀中期以降に、現在の宮崎県と鹿児島県に当たる南九州の広域を含んで成立し、702年に薩摩国が分立、713年に大隅国が分立した。
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ちょうど記紀成立時期に日向国が縮小したことが、高千穂論争を複雑にしている。

 

高千穂論争

日本神話を研究する「国学」が盛んだった江戸時代、天孫降臨の地をめぐり「臼杵高千穂説」「霧島高千穂説」という二つの説で論争が行われた。本居宣長は『古事記伝』でどちらとも決めがたいと、最初臼杵郡の高千穂の山に降り、その後に霧島に向かったと折衷案で締めている。ずるい。

しかし、それも致し方ない。遡ると鎌倉時代にはどちらが天孫降臨伝承地なのかはわからなくなっている。当時既に根拠となる文献が残っていないので、江戸時代の本居宣長をもってしても論争に進展があるはずもなく、まして現代では想像で語る以上のものができるわけがない。

そんなわけで、現代では臼杵高千穂、霧島高千穂の両方が天孫降臨の地として観光アピールをしている。

 

臼杵高千穂

13世紀鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』に『日向国風土記』の逸文が記されている。

日向國風土記曰臼杵郡内知鋪郷天津彦火瓊瓊杵尊天降於日向之高千穗二上峯時天暗冥晝夜不別人物共遍物也難別於兹有土蜘蛛名曰大鉗小鉗二人奏言皇孫尊以御手拔稻千穗爲籾投散四方必得開晴于時如大鉗等所奏搓千穗稲爲籾投散即天開晴日月照光因曰高千穗二上峯後人改號知鋪

 

日向の風土記に曰く、臼杵の郡のうち知鋪の郷、アマツヒコヒコホノニニギノミコト、天の磐座を離れ日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に空暗く昼夜別かず、人、道を失い、物分けがたかりなり。ここに土蜘蛛あり。名をオオクワ、オクワと言う二人ありてもうしけらく。「皇孫の尊、御手をもちて、稲千穂を抜き籾となし、四方に投げ散らしたまはば、必ず明かりなむ」と申しき。時にオオクワらの申ししが如く、千穂の稲を手もみて籾となし投げ散らしたまいければ、即ち、天開いて晴れわたり日月が照り輝きき。よりて、高千穂の二上の峰と言いき。後の人、改めて、智鋪と名づく。

国文学研究資料館データベースより

『日向国風土記』は713年に官命が出て編まれたもの、つまり、『日本書紀』とほぼ同時期に作られたものである。臼杵高千穂論を支持する多くが、これを大きな論拠としている。

 

個人的な感想として、この話はあまりにも出来すぎていて、古事記なり日本書紀を参考にして天孫降臨にからめて話を作ったのではないかと疑っている。だいたい何故に智鋪なのか。稲穂を撒いたのならそのまま千穂でよいではないか。
一旦疑い出すと疑惑は広がる。わざわざ智鋪を担ぎ上げるメリットがあるのか。ここで、日向国風土記は大隅国が分立した後に書かれたものであることを思い出したい。霧島高千穂は日向国に属するが、霧島高千穂説に関わる古い神社はそのほとんどが大隅国になってしまったのを、風土記を編纂した日向国の国司らはどう思ったであろうか。

 

宮崎県北端、西臼杵郡高千穂町は神話の里として大々的な観光地になっている。私は2013年に高千穂神社や天岩戸神社等々の観光コースを一通り回っている。
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その時は、こんな不便そうな土地によくも降りようと思ったなというのが私の第一印象だったし、天の国高天原にあるはずの天岩戸や天安河原が重要な観光スポットになっているのに鼻白んだのを思い出す。きっと天孫降臨よりも賑々しい天岩戸の方が受けがよいのだろう。つまりは、記紀を都合よく解釈して後付で土地に結びつけようという意思が節々に見え、伝承の信憑性に欠けると感じたのである。そのため、途中からはそういうことは一切考えずに、その土地の人が示したい物語を楽しむことに徹した。

以上の経緯に加えて、臼杵高千穂地域には延喜式神名帳(成立927年)に記された神社が一切ないという事実がある。延喜式成立前に失われたなり端からなかったなり解釈はいくらでもできる。もちろん、延喜式内社でなくとも地域で大きく祀られている神社は多くあるので一概に古くから続く神社がないという意味ではないものの、古の痕跡を求めて旅を楽しみたい側からすると魅力に欠ける。

霧島高千穂

霧島連山は日向と薩摩の境にあり、古くから山岳信仰(霧島六所権現)がある土地で、霧島連山を中心に延喜式神名帳に記されている古い神社も多く残っている。
都城盆地から見ると、高千穂峰は山頂から両翼を広げた形が実に雄大であり、多くの山々の中でもひときわ目立つ。高千穂峰は古代から続く神奈備信仰の舞台であり、山頂近くに霧島神宮跡地として鳥居が立てられている。
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その北西に近年爆発を繰り返している新燃岳、さらに霧島山の最高峰韓国岳がある。

 霧島高千穂説を支持する論者は、『日本書紀』に「日向の襲の高千穂の峰」「日向の襲の高千穂くじひ二上峰」「日向の襲の高千穂そほりの山峰」と出てくる「襲」に注目している。同書には景行天皇が熊襲征伐のために日向に仮宮の高屋宮を建て「襲国」に赴く記述がある。熊襲の国という意味で使われているのが明らかとして、これを後の大隈国曽於郡の地名に関連付けている。
その他、『懐風藻』序文の「襲山」や、『薩摩国風土記』逸文など臼杵高千穂峰説よりも信憑性ある論拠が多いように思う。

 

旅行コース

そういった訳で今回の旅では「臼杵高千穂」地域を除外し、主に「霧島高千穂」説を中心に日程を組むことにした。

邇邇藝命の天孫降臨から神武天皇に続く三代をそれぞれ主祭神として祀る神社と陵墓を中心に三代にまつわる逸話が残る地を回り、最終日に余裕があれば宮崎市内の神社も回る。時間と天気次第では姶良山陵を諦めることになるが、それはそれで仕方がない。

  • 邇邇藝命:高千穂河原、霧島神宮、薩摩川内市の可愛山陵(新田神社)
  • 火遠理命:鹿児島神宮、姶良郡溝辺町の高屋山上陵
  • 鸕鶿草葺不合尊:鵜戸神宮、肝属郡吾平町の吾平山上陵

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実際にプランを立ててみたら、三泊四日では回るには思いの外広かった。