新田神社:日向三代を巡る旅 その7
鎌倉時代に式内社枚聞神社と新田神社とで薩摩国一宮相論が起こったことから、薩摩国には一之宮が二つ存在する。薩摩国一之宮 新田神社(にったじんじゃ)は薩摩川内市街地にある神亀山(しんきさん 高さ70m)の山頂にあって瓊瓊杵尊を祀る。川内八幡とも呼ばれる。
江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の13巻に「八幡新田宮」として描かれている。平安時代中期に起こった承平天慶の乱を機に、国家鎮護を祈願して石清水八幡宮から勧請されて八幡宮を名乗るようになった。
新田神社が可愛山稜との関係を主張し始めたのは鎌倉時代に遡る。新田神社は最初神亀山の中腹にあったが平安時代末期に焼失し、後に山頂に遷座した。当時再建の滞りがある中で、宗教的権威を強める目的で可愛山稜との結びつきを強めたと思われる。これにより、八幡宮本来の祭神である応神・仲哀天皇と神宮皇后に加えて瓊瓊杵尊を合祀したと思われる。さらに神格を強調するためか、鎌倉時代中期には八幡宮発祥の地であることを主張し、蒙古来襲後に展開した一宮相論の結果、薩摩国一宮を称し始めた。
川内川は南九州最大の河川で、熊本県最南端の白髮岳南麓から宮崎県を経由し薩摩川内市に至る。
一の鳥居
川内川の辺りから新田神社の参道が伸びる。
瓦葺きの雨覆いがついた両部鳥居である。雨覆いと笠木の反増がやけに大きく、まるでバッファローの角のよう。
二之鳥居
桜並木の参道を300メートルほど進むと道路を挟んで二之鳥居がある。
一の鳥居と同じく、これも瓦葺きの雨覆いがついた両部鳥居。
神橋(降来橋)
二之鳥居をくぐるとすぐに銀杏木川に架かる太鼓橋「新降来橋」がある。
新降来橋に並行して車道用の宮前橋が架かる。
橋を渡って振り返る。石橋のアーチが美しい。
写っているのは新降来橋で、上の『三国名勝図会』の絵に描かれている降来橋は、写真手前で見切れている。
降来橋と擬宝珠の案内板
薩摩川内市指定文化財
降来橋と擬宝珠
昭和61年3月26日指定
管理者 新田神社降来橋は、明治二十五年十一月に架け替えられた、長さ八メートル、幅五メートルほどの石造太鼓橋です。
この橋の由来は古く、昔はこの場所に忍穂川が流れており、そこに架けられていました。三國名勝圖會によると、正応三年(一二九〇)新田八幡宮の降来橋において舞楽が催され、多くの見物人が訪れたと記録されています。
慶長七年(一六〇二)島津義弘が、神社の神殿を修復した際、この降来橋の欄干んい刻銘入りの青銅製擬宝珠八個が取り付けられました。現在は外され、宝物殿に大切に保管されています。
川内川から神社までまっすぐ伸びる八丁馬場と呼ばれた参道は、桜の名所となっていて、毎年多くの花見客が訪れます。参道の端の川内川沿いに第一の鳥居があります。この参道の両側には、かつて寺院が立ち並び「新田神社十二坊」と称されていました。
降来橋と第二の鳥居の間の新降来橋は、昭和六十一に銀杏木川に架けられました。平成三十一年三月 薩摩川内市教育委員会
神橋を渡り、いよいよ境内に入る。見上げるような階段の下には賽銭箱が設けられている。
社号標には「国弊中社新田神社」とある。
門守神社
階段途中の左に西門守神社がある。
御祭神は櫛磐門戸神。
階段の右に東門守神社。
御祭神は豊磐門戸神である。
小屋梁の上に鬼面があった。
門守は邪鬼の侵入を防ぐ守護神なので、ここに鬼面があるのは不思議としか言えない。
階段脇に老木の楠があった。
階段を上りきって振り返る。
新降来橋から連続する降来橋が見える。門守神社では正月の飾り付け作業が進んでいた。
がらっぱ大明神
一つ目の階段を登りきり、神亀山の中腹の広場に着いた。階段の左が旧社殿跡地である。
新田神社旧社殿礎石
新田神社は、平安時代承平3年まで神亀山中腹にあった。
當神社は高倉天皇の御代承安三年前まで此の所に御鎮座坐ませしを同年中神火のため炎上したるを以て奏聞宣旨を下賜ひ今の頂上に御遷座となりたるものにして此の石は即ち當神社殿の礎石の一にして今に残存せるものである。
昭和四十一年十月吉日
新田神社社務所
末社三社
左から早風神社(御祭神:級長津彦神 級長津姫神)、中央神社(御祭神:大山祇命)、高良神社(御祭神:天鈿女命)である。
さらに階段が続く。
階段脇の狛犬。
両方獅子だが、吽型の顔や巻毛の様子から雌雄の対にみえる。
大楠
新田神社の大楠案内板
薩摩川内市指定文化財
新田神社の大楠
昭和四十六年十一月一日指定
クスノキは西日本に多く見られますが、自然の山林にはあまり見られず、人里周辺や神社などに多く見られます。樟脳(いわゆるカンフル)の原料となり、古来より防虫や鎮痛などに利用されるほか、丸木舟の材料にも仕様されてきました。
このクスノキは、根回り13.3メートル、目通り(幹周り)9.9メートル、枝張りが東西17.2メートル、南北15.5メートル、高さは約20メートル余りで、根元近くは空洞になっています。樹齢二千年と伝わっていますが、年輪成長平均率によると約650~800年と推定されます。
地上2mのところに大穴牟遅神(大国主の若き頃の名)の木像が彫刻してあります。この木像は、島津家の家老で、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いにおいて、島津義弘の影武者となり討死した阿多長寿院盛淳が自ら彫り、奉納したものと伝えられています。
与謝野鉄幹・晶子が新田神社に参拝に訪れた際、詠んだ歌が残っています。可愛の山の 樟の大樹の 幹半ば
うつろとなれど 広き陰かな
与謝野鉄幹平成二十一年十二月 薩摩川内市教育委員会
長い階段を登りきった山頂に、新田神社の社殿がある。
新田神社案内板
薩摩一の宮 新田神社(旧国幣中社)
御祭神
本祀一座 天津日高彦火瓊瓊杵尊
配祀二座 天照皇大御神・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊御系図
天照大神(伊勢大神宮)―天忍穂耳尊(英彦山神宮)―瓊瓊杵尊(新田神社)―彦火々出見尊(鹿児島神宮)―鵜草葺不合尊(鵜戸神宮)―神武天皇(神日本磐余彦尊 宮崎神宮・橿原神宮)―今上天皇主祭典
武射祭 一月七日 式中行列を立て三百二十余段の石段を降り表大参道蘭桂馬場に於いて古式に依る武射の行事を執行する。
早馬祭 三月春分の日 鈴懸け馬踊(シャンシャン馬)他余興の奉納あり。
御田植祭 六月入梅の日の前の日曜日 当社 御神田の御田植行事。ヤッコ振踊(県無形文化財指定)の奉納あり。
御神鏡清祭 七月二十八日 古来奉蔵の古鏡七十余面を幼児等による古式に則りたる磨き清めの神事。
御宝物虫干祭 八月七日 大事な御宝物の虫害と破損のないよう祈願するお祭。
例大祭 九月十五日 当社三大祭(祈念祭・新嘗祭・例祭)中の大祀である。
御通夜祭(ほぜまつり) 十月最終土曜日 祭典後・神舞を始め諸種の催し物あり。ようこそ御参拝下さいました
子だき狛犬
石段の最上段両脇の狛犬。建立年代は不明だが、廃仏毀釈が徹底して行われた薩摩国であるから、明治以降のものだろう。
吽形の頭には角の跡がある。
子だき狛犬案内板
子だき狛犬(安産狛犬)
この子だき狛犬は昔から安産に大変霊験ある狛犬と言われております
―安産祈願の方へ―
安産を願って狛犬の頭をなでて下さい
子だき狛犬が大変受けているようで、安産祈願や赤子連れの参拝客が目立った。
新田神社社殿案内板
鹿児島県指定文化財
新田神社本殿 拝殿 舞殿 勅使殿 両脇摂社
平成二年三月二十三日指定新田神社は薩摩国一宮とされ、古くから薩摩国を代表する神社です。創建は神亀二年(七二五)など諸説ありますが、はっきりしたことはわかっていません。
社殿は、中腹にありましたが、承安三年(一一七三)に焼失後、安元二年(一一七六)に山頂へ遷座され、その後、慶長六~七年(一六〇一~〇二)、島津義弘の命により、現社殿のもとになる改築が行われました。
本殿・幣殿・拝殿・舞殿・勅使殿が一直線に並び、本殿両脇に摂社を置き、互いに回廊でつなぐ配置は県内唯一です。また本殿は、仏教寺院の建築様式と類似しており、神仏習合の名残が窺えます。
新田神社社殿配置図
勅使殿
唐破風の妻飾りには鳳凰、妻下には瑞雲青波に鶴亀、欄間に牡丹、蟇股に松が彫られている。中を覗くと、鹿児島神宮と同じように格天井に天井画が描かれていた。鬼瓦や拝殿幕に入った社紋は十六菊である。
木鼻の象と獅子。獅子の顔が平らで鬼面のよう。
手水舎
東長庁
祈願受付。
西回廊
西長庁の脇から覗くと、西廻廊、木立越しに本殿屋根が見えた。
東回廊
社殿左を通って可愛山稜に向かう途中、東回廊と木立に邪魔されて見づらいが本殿がわずかに見える。
右上にわずか見える校木の壁の建物が宝物殿。
本殿
可愛山稜から本殿背部が見える。
本殿は外千木と5本の鰹木がついた銅板葺入母屋造りの平入りで、一間の向拝がついて幣殿と繋がっている。
手水舎の前から境内の東を見る。正面階段下が社務所。
東長庁の先が勤番所でおまもり授与所になっている。さらに、正月の準備で通路右に授与所が拡張されていた。
振り返って右手前から東長庁、手水舎、勅使殿と並んでいる。
勅使殿の奥に舞殿、拝殿の屋根が見える。
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