霧島神宮:日向三代を巡る旅 その4
霧島神宮は延喜式にある「日向国諸県郡 霧嶋神社」の論社で、創建は記紀成立以前の6世紀にまで遡れるらしい。霧島の地は山岳信仰を元にした修験道が古くから盛んで密教文化が濃く、六つの権現社があった。
元は高千穂峰と御鉢火山の間をつなぐ背門丘に「高千穂神社」としてあったが噴火で焼失。その後、平安時代の天台宗の僧性空聖人によって麓(高千穂河原の古宮址)に再建されたのが再び焼失。後250年ほど仮宮で祭られ、室町時代(15世紀)に入って現在の霧島町田口の地に再建されたという。
江戸末期に薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』の34巻には霧島神宮が「西御在所霧島権現社」と記されている。画面左に「華林寺」とある。霧島神宮は仮宮から現在の地に移る時、それを主導した真言宗の兼慶上人によって真言宗となり、神社は「西御在所霧島権現」、寺院は「霧島山錫丈院華林寺」となった。
当時の境内に多宝塔、鐘楼がある。当時は霧島権現に本地六観音六体、華林寺本堂に十一面観音一体を安置し奉っていた。
明治時代、薩摩藩による廃仏毀釈が徹底して実施され、華林寺は廃寺となった。
高千穂河原を下り、現在の霧島神宮へ車を走らせる。国道223と国分霧島線との交差点(霧島神宮前)に大きな鳥居が見える。
大鳥居
朱塗りの明神鳥居で島木の中央に社紋十六菊紋、笠木の上に雨覆屋根がある。御代替わりを機に昨年塗り直されたばかりで青空に映えていた。元は黒塗りであった。
鳥居の両脇には大きな切妻屋根の石灯籠。右奥に高千穂峰が見える。
ロータリーがある門前町を経て参道に向かう。
霧島神宮案内板
霧島神宮 鹿児島県姶良郡霧島町田口鎮座
御祭神は天孫瓊瓊杵尊にましまし明治七年二月神宮號宣下と共に官幣大社に列せらる欽明天皇の御宇(西暦五〇〇年代)高千穂峯の嶺近くに創祀せられその後噴火のため幾変遷を経て当地に鎮座ましましたるは後土御門天皇の御宇(西暦一四八四年)にして現社殿を造営したるは中御門天皇の御宇(一七一五年)なり
御祭神は天祖の神勅を奉じてこの霊峰に御降臨遊され鹿児島県内各地に御聖蹟を遺し給ひ崩御の後鹿児島県川内市なる可愛山陵に斂め奉る平成四年九月吉日之記
神橋
霧島川の支流を渡る。
神橋を越え道路を渡る。社号標の脇に長い階段がある。
神橋から社殿までずっと紫色の幟が立っていた。
階段を登りきったところで振り返る。
二の鳥居
朱塗りの明神鳥居の先に美しく整備された参道がまっすぐ伸びる。
両脇にまるで狛犬のように大きな溶岩石が積まれていた。
参道脇には多くの石灯籠が並んでいる。
西郷従道寄進の石灯籠
さらには溶岩を石灯籠の形に積み上げたものまで。
神聖降臨之詩碑
徳富蘇峰が1952年(昭和27年)に詩詠・揮毫した。
神聖降臨之詩碑案内板
神聖降臨之詩碑
神聖降臨地 乾坤定位時
煌々至霊気 萬世護皇基
徳富蘇峰「皇室を中心とする国、日本と徳富蘇峰」
明治、大正、昭和にかけての思想家徳富蘇峰は其の思想の中で根幹をなす「皇室中心主義」について「漸く行き着いた安心立命の処」と言い「此を宣揚して死んだら私の生存したる甲斐もある」と感得しえた思想の境地を語ったと云われています。
この詩は昭和二七年「卒寿」を迎えた蘇峰の詠詩揮毫で、国体の精華が詠みあげられています。詩碑は、昭和二七年八月二二日、照国開運社長中川喜次郎兄弟、並びにその厳父より同社の建造船タンカー「霧島丸」の進水を記念して奉納されました。
霧島神宮
社務所
昭和5年7月竣工の銅板葺木造平屋建ての和風建築。入母屋造りの大屋根の右側は切妻屋根の玄関が飛び出す。国の登録有形文化財建造物に指定されている。
この右に唐破風の玄関が美しい比較的新しい和風建築があった。写真を取りそこねたが、どうやら客殿だったようだ。
広く設けられた石の階段を上がる。
三の鳥居
朱塗りの明神鳥居。笠木の上の雨覆屋根がやけに目立つと思ったら瓦葺きだった。珍しい。
正月に向けて飾り付けされていた。
三の鳥居の脇には銅板葺切妻屋根の灯籠。
杉林の中、西陽に輝く社殿が現れた。
正面が社殿、右が手水舎、左が授与所である。
玉垣の側に霧島神宮の案内板があった。
霧島神宮 鹿児島県姶良郡霧島町田口鎮座
御祭神 天孫瓊瓊杵尊
相殿
嫡后 木花開耶姫尊
御子 彦火火出見尊 鹿児島神宮
嫡后 豊玉姫尊
御孫 鵜萱草葺不合尊 鵜戸神宮
嫡后 玉依姫尊
御曽孫 神武天皇 宮崎神宮当 神宮は天祖天照大神の御神勅を畏み戴き高千穂峯に天降りまして皇基を建て給ひ国土を開拓し産業を振興遊ばされた肇国の祖神をお祀りしております。
御本殿以下諸建物「平成元年国指定重要文化財」
正徳五年(西暦一七一五年)島津第二十一代藩主吉貴公御造営寄進主なる祭典
御田植祭 大祭 旧二月四日
例大祭 大祭 九月十九日
古例祭 中祭 旧九月十九日
天孫降臨記念祭
天孫降臨御神火祭 小祭 十一月十日
御神木
樹冠が丸いので一見そうと見えないが、杉である。幹周り約7メートル、推定樹齢800年。
手水舎
銅板葺切妻作り四方開け放ち。朱色に塗られ、梁や木鼻には彩色された彫刻が施されている。
手水鉢は溶岩石。
水口の龍は、頭頂部から首が出ているような形をしているのが面白く、まるでマナマズのよう。江戸時代後期の石工岩永三五郎作。肥後・薩摩で活躍し、石製アーチ型眼鏡橋を多く残している。
門守神社
朱色に塗られた銅板葺一間社流造。
勅使殿
桁行一間梁間一間、銅板葺入母屋造、唐破風の向拝一間。組物や各所に極彩色が施された彫刻がある。左右に西長庁と東長庁が伸びる。
てっきり拝殿かと思ったが、勅使殿と書かれていた。どうやらこの奥に拝殿がある鹿児島地方に特有の作りらしい。勅使殿というからには、元々は天皇陛下の御代理である「勅使」が参拝するところなのだろう。今は勅使殿が拝殿のように使われている。古くはもっと離れた所に一般向けの拝所が設けられていたのかもしれない。
勅使殿の唐破風向拝。菊、桐、梅、雉、瑞雲、牡丹、松。
その殆どが浮き彫りではなく、裏面まで細かく彫り込まれて彩色されている。木鼻には獅子と獏。目には玉眼がはめ込まれ、口の中まできれいに彫られているのが見事。
登廊下
勅使殿から勅使殿と拝殿をつないでいる登廊下を見る。
桁行十間梁間一間、銅板葺切妻造。
社殿が傾斜地に作られているので、勅使殿から拝殿と本殿はほとんど望めない。瑞垣を回り込めるところもないので、勅使殿から離れて本殿を遠望することにした。
左手前に手水舎、奥に授与所がある。
本殿・拝殿
霧島神宮の社殿は高千穂峰を背にして南西を向いている。西陽が当たって本殿が輝いていた。
本殿、幣殿、拝殿が合わさった総銅板葺複合建築で、本殿は桁行五間梁間四間に向拝一間がついた入母屋造で、屋根には内削ぎの千木と鰹木がセットになってそれぞれ5本ずつついている。幣殿は桁行二間梁間三間の両下造。拝殿は桁行七間梁間三間の千鳥破風付向拝一間の入母屋造で、大屋根の両端と千鳥破風に内削ぎの千木がある。夕日に反射して見えにくいが、単眼鏡で覗くと幣殿の壁は極彩色で瑞雲と瑞鳥が描かれているのが見えた。
神楽殿
社殿から離れて右の方に神楽殿がある。
霧島神宮御鎮座1460年を記念して平成17年秋に建立された。
車祓所を兼ねている。
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