江戸の花だより@国立公文書館
熊谷守一展に行くついでに、国立公文書館へ。
江戸の花だより展を観ました。
当館が建つ北の丸公園一帯では、秋から冬にかけて紅葉が見ごろになります。江戸時代の人々も、植物を通して四季の移ろいを楽しんでいました。本展では、植物図譜を中心に、園芸書、名所図会なども取り上げ、江戸時代の人々の植物へのまなざしをご紹介いたします。
江戸の四季
江戸時代の人々は現代と同じように移り変わる四季の自然を楽しんでいました。桜や紅葉の名所などには多くの人々が訪れ、賑わっていたといいます。
第一章では、江戸の名所や年中行事を記した資料を取り上げ、江戸時代の季節の楽しみ方をご紹介いたします。
江戸および江戸周辺地域を対象とした絵入り地誌です。編者は江戸神田の町名主の斎藤家父子三代(長秋・莞斎・月岑)で、挿絵は長谷川雪旦が描いています。天保5年(1834)、同7年の2回に分けて刊行されました。
展示は、左から《海晏寺紅葉見之図》《道灌山聴虫》《龍眼寺》です。海晏寺は現在の品川区南品川にある寺で、江戸の紅葉の名所でした。道灌山は現在の荒川区西日暮里の高台で、当時は江戸市内に比べ自然が豊かで、秋の虫の声を楽しむには絶好の場所だったという。龍眼寺は現在の江東区にある寺で、境内に萩が多く、俗に萩寺と称された。
《絵本江戸土産 歌川広重・二世歌川広重画 嘉永3年~慶応3年(1850~1867)刊》
江戸市中および近郊の名所旧跡を描き、簡単な解説を添えた色摺りの絵本。本書と同名の本が以前にも存在し、当時大いに流行しました。しかし、火災で版木が失われ、また名所古跡も変遷したため、広重に作画を依頼して新たに出版したものが本書です。全10冊ですが、当館では1冊欠いて9冊のみ所蔵しています。なお、二世歌川広重は初世歌川広重の養子。外務省旧蔵。
展示は《真間の継橋 手子名社 真間の紅楓》《染井植木屋》《蒲田の梅園》《千駄木団子坂花屋舗》です。
《柳営御白書院虎之間新御殿御休息伺下絵 狩野永徳画 弘化2年(1845)》
天保15年(1844)5月に江戸城本丸御殿が全焼し、弘化2年(1845)2月に再建されます。再建した本丸御殿の襖や長押上に描かれた障壁画の縮図が本資料です。大奥新御殿、虎之間、白書院の3つの建物の障壁画の縮図が残されています。展示資料は大奥新御殿(絵巻の全長は約8m)のもので、春夏秋冬を背景に京都の名所が描かれています。大奥新御殿は将軍の御台所(正室)の居住空間でした。全3軸。内務省旧蔵。
植物図譜の世界
江戸時代には、植物や動物等を描いた図譜が数多く生み出されます。その背景には、動植物などの薬用を研究する本草学研究の進展、幕府や各藩による殖産事業の推進などにより、身近な動植物への感心が大きく高まったことが挙げられます。
第二章では、そのうちの植物図譜を取り上げ、それぞれの図譜が描かれた背景とともにご紹介いたします。
《古今要覧稿 屋代弘賢編 文政4年~天保13年》
幕臣の屋代弘賢が編纂した百科全書。器材、草木、禽獣等に分類し、項目を立て、日本や中国等の文献から関連する記事を抄出し、必要に応じて絵図や解説を加えています。完成したものから順次、幕府へ献上し、計560冊を進献しましたが、天保15年(1844)の江戸城本丸火災の際に焼失しました。展示資料は、明治期に内務省が購入した弘賢旧蔵品です。全179冊。内務省旧蔵。
展示は《松》《紅葉》《梅》《桜》《椿》《山茶花》です。
展示資料は、明治期に国書刊行会から刊行されたもの。複数ある『古今要覧稿』の写本を校訂し、活字化して刊行されました。展示部分は『古今要覧稿』の凡例で、弘賢が本編の編纂に至った経緯が記されています。この判例は、岩崎文庫所蔵(現在は静嘉堂文庫所蔵)の『古今要覧稿』のみに記されています。これによれば、多くの知識を正確にかつ効率よく得るためには類書(分類体の百科全書)が必要であるが、我が国にはこれが存在しないことから、編纂を決意したと述べられています。全6冊。枢密院旧蔵。
矢印部分に「築州(新井白石)のような博識をもってしても、ものによってはわからないことも少なくない。それは我が国に類書がないからである」というようなことが書かれている。
《◎庶物類纂図翼 戸田祐之画 安永8年》
幕臣の戸田祐之が描いた薬草類の写生画集。『本草綱目』(李時珍著)所載の植物を写生しています。本書の献上を幕府へ願ったところ、『庶物類纂』(稲生若水・丹羽正伯編)の参考図録として有用であるとの評価を受け、『庶物類纂図翼』の書名を与えられ、安永8年に紅葉山文庫に収蔵されました。平成8年(1996)に『庶物類纂』とともに国の重要文化財に指定されました。全28冊《添書含む)。紅葉山文庫旧蔵。
展示は《菊》《牡丹》《水仙》です。
《◎庶物類纂 稲生若水・丹羽正伯編 延享4年(1747)成立》
江戸時代中期に成立した日本の本草書。動植物・鉱物の中から薬効のあるものを選んで分類し、それぞれについて中国の文献から関係する記事を収集して記した書です。元禄10年(1697)、草本学者の稲生若水は加賀藩主前田綱紀から命を受け、『庶物類纂』の編纂に着手します。しかし、正徳5年(1715)、若水は作成途中で病死し、のちに藩主綱紀も死去したことにより、事業は中断。それを惜しんだ8代将軍徳川吉宗は、若水の弟子である丹羽正伯らに編纂事業の継続を命じ、延享4年に完成しました。全1054巻(465冊)。紅葉山文庫旧蔵。
展示は水仙について記した部分。資料中に、水仙は腫れ物を治すとあるが、実際には有毒。
このような注意書きが提示してありました。
《草木図説 飯沼慾斎著 安政3年~文久2年(1865~1862)刊》
西洋の植物分類体系を導入した植物図鑑。リンネの24鋼分類に従って植物が配列され、観察に基づいた写生図と解説から成り、1200種以上の草本を収録しています。葉の表を黒色、裏を白色で描き分けており、『絵本野山草』や「花彙』の影響がみられます。慾斎は顕微鏡も活用しており、花の構造の精密な図は、顕微鏡による観察の成果といえるでしょう。全20冊。
展示は、フクジュソウとカテンソウの部分。
我が国最初の体系的な西洋植物学の概説書。ラテン語「botanica」を「植学」と訳していますが、これは現在の「植物学」に相当します。本書はリンネの24綱目の分類法、植物の形態と生理などを解説しています。また、巻末に「植物啓原図」として、植物の形態図、花粉の顕微鏡図、発芽の図などを木版色刷で掲載しています。全3冊。文部省旧蔵品
展示は春蘭、唇花、撒爾費亜、鷲草、菫菜。
《東京大学小石川植物園草木図説(巻1)伊藤圭介・賀来飛霞編 明治14年(1881)刊》
小石川植物園の植物図鑑。明治10年(1877)に『小石川植物園草本目録』、同13年には目録の後編が刊行されており、本書はその図譜にあたります。画の質や印刷の面でも優れており、世界の植物研究書から注目されました。賀来飛霞は本草学者で、伊藤圭介の弟子です。全2冊。
展示はサラサモクレン。図が美しく目を惹きます。
園芸文化の興隆
江戸の各所に各藩の大名屋敷が建てられ、屋敷内に庭園も整備されます。それに伴い庭園の維持管理を担う植木屋が生まれました。当初、将軍や大名など上層階級の人々が楽しんでいた園芸ですが、次第に、中下級の武士や庶民に広がり、栽培や品種改良が盛んに行われるようになります。中でも色や形状が通常とは異なった奇品植物が人々の心をつかみました。
第三章では園芸書、奇品植物図集をご紹介いたします。
朝顔の珍種を収録した多色刷の図集。下巻には奇品・珍種の朝顔の育て方も記載されています。朝顔栽培の流行は上方で始まり、文化13年に浅草で朝顔の品評会が開かれたことをきっかけに江戸で大流行し、変化朝顔と称される多種多様な朝顔が生み出されました。そうした流行の最中に刊行されたのが本書です。全2冊。内務省旧蔵品。
江戸時代の図譜には黄色い朝顔が描かれている。当時は確かに存在した黄色い朝顔ですが、現代には伝来せず、「幻の朝顔」と呼ばれていました。
他植物からの遺伝子導入技術などバイオ技術が進んだ現代と違って、突然変異による新色発現しか期待できない時代ですから、育種も相当な困難が伴ったと想像できます。
《寄品家雅見 増田繁亭著 関根雲停・大岡雲峰ほか画 文政10年(1827)刊》
江戸の青山(現在の港区北西部)で植木屋を営む増田繁亭(金太)が著した奇品植物の図録。別名「草本奇品家雅見」。「奇品」とは、形状が特異なもの、変わったもののことです。江戸および近郷の愛好家が所有する奇品植物約500点を収録し、所有者の名前と住所、逸話等と共に紹介しています。全3冊。内務省旧蔵。
《草木錦葉集 水野忠暁編 関根雲停・大岡雲峰画 文政12年(1829)刊》
斑入り植物を中心とした奇品植物図集。緒巻・前編・後編から成ります。緒巻では、斑の種類、栽培法、特殊な用語の解説、害虫駆除法などを述べ、前編・後編では、いろは順に植物の図と解説を掲載しています。全7冊。内務省旧蔵。
画は『寄品家雅見』と同じく、関根雲停と大岡雲峰が描いている。ラベルで奇品の区別を描いているのが、見やすく、しかも、面白い。
暮らしの中の植物
植物は見て楽しむだけでなく、食べものとしても利用されます。しかし、中には毒があり、食用にできない植物もあります。
最終章では、暮らしの中での植物に注目し、身近な植物の特徴や利用法を記した資料をご紹介いたします。
飢饉の際に食糧となる植物を紹介した書。『民間備荒録』(建部清庵著)の付録の図集として作成されました。個々の植物について図を掲載し、文字の読めない者でも植物を探し出せるように配慮されています。明和8年(1771)に草稿が完成するも出版に至らず、のちに清庵の子孫らによって校訂が行われ、天保4年に刊行されました。全2冊。内務省旧蔵。
展示は、メナモミとハコベの部分。
建部清庵は一関藩(現在の岩手県一関市)の藩医。漫画『風雲児たち』に出ていたのを覚えています。杉田玄白と往復書簡を交わし、後に大槻玄沢となる弟子を預けたとか。
意外と古くにリンネの二名法に従って作られた図譜が出来ていたことに驚きました。リンネの『自然の体系』が1735年刊行で『植学啓原』が1834年ですから、ちょうど100年です。これを早いと見るか遅いと見るかは人それぞれだと思いますが、それにしても、鎖国していても情報は伝わるものですね。
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