日本美術の流れ@東京国立博物館 本館

1月5日、初もうでイベントが終わり、すっかり平常に戻った東博です。
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新しく展示替えされたところを中心に回りました。

いつものように気になったものをメモとして残します(◉は国宝、◎は重要文化財、◯は重要美術品)。

1室 日本美術のあけぼの―縄文・弥生・古墳

埴輪 踊る人々 2個 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 古墳時代・6世紀
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踊る男女とも呼ばれる特徴的な人物埴輪である。双方とも下半分を推定復原しているが,小さい方の美豆良をつけ,腰紐の後ろに鎌をさしている方が男性で,おそらく農夫を表しているのであろう。大胆にデフォルメされた顔に,左手を挙げたポーズから剽軽に踊る人々を連想させるが,同じ古墳からは儀式に参列する人物を表したとみられる埴輪が多く出土しており,おそらく殯などの葬送の場における歌舞の姿を写したものともみられる。

お馴染み、トーハクくんの実体です。本当に踊っているのかどうか、諸説あるようです。

深鉢形土器 1個 長野県伊那市宮ノ前出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年
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口縁の頂部に二個一組の凸飾が二対,胴部の一側面に蔓状の長い把手があるのが特徴。口縁部に隆帯による籠目状の文様が描かれるほか,胴部全体に隆帯による幾何学文が配されるなど装飾豊かな土器である。中部高地を中心に盛行した曽利式土器の特色があらわれている。

縄文時代の文化の中心と言われている八ヶ岳西南麓の発掘物。
今年の夏にはトーハクで縄文展が開催されるとか。去年見た國學院大學博物館の火焔型土器や国宝展の土偶がとてもおもしろかったので、とても期待しています。

土偶 1個 山梨県笛吹市御坂町上黒駒出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年
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奇怪な顔と形をした半身の土偶。目尻が鋭く吊り上がり,人の顔というより獣面に近い。この顔の表現は中部高地や関東地方西部の中期の土器の人面把手に共通する。胸に当てられた左手の三本指の表現もこの時期の土器につけられる人体および動物装飾にみられる。

ヤマネコ土偶とも呼ばれている。

2室 国宝 釈迦金棺出現図

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横長の大画面の中央で向き合うふたりの人物。大きな白く円い光を負うのはお釈迦様。そのお釈迦様がやや身をかがめて合掌する相手は、生みの母の摩耶夫人(まやぶにん)。この場面の主人公であるこの二人、実はすでに亡くなっています。摩耶夫人はお釈迦様を生んで7日後に亡くなり、忉利天(とうりてん)という天上界に天人として生まれ変わります。そして、お釈迦様はこの場面の直前に入滅(にゅうめつ)しました。入滅とは仏様が肉体的な死を迎えることです。天上界でお釈迦様が入滅することを聞きつけた摩耶夫人は急いで地上へ降りてきますが、到着したのはお釈迦様が棺に入れられた後。間に合わなかったことを嘆く母のため、お釈迦様は神通力をもって復活し、棺より身を起こし説法をしたということが『摩訶摩耶経(まかまやぎょう)』に説かれています。
この劇的な場面を主題とした先例は、中国・敦煌の壁画の中で涅槃とその前後の事蹟を一連のものとして描いた作例の中にいくつかみることができます。しかし、単独の画像として描く例は本図のみで、非常に貴重です。類例のない特殊な主題、図像の選択や、沙羅樹に掛けられた衣などに用いられた太細で表情を付けた線は、11世紀当時に生じた強い中国志向を満たすために、過去に日本に伝わった、10世紀頃の中国絵画を基としたためと考える説が近年提示されています。しかし、どのような仏事で用いられたかは不明です。
大勢の人物が描かれていますが、大きさや配置、顔の向きなどを工夫して、お釈迦様を中心とした構図にまとめ、劇的な場面が印象的に表現されます。彩色は白味の強い明るく柔らかな色で彩られ、さらに色の線や色暈(ぼか)し(グラデーション)も多用しています。金銀による彩色、截金(きりがね)も加えて、11世紀仏画の特徴である豊麗な色彩を示しています。
本図は、もと、京都の天台宗長法寺(ちょうほうじ)に伝来し、第二次大戦後に、電力王とも最後の茶人とも評された松永安左エ門(まつながやすざもん)氏が入手し、財団法人松永記念館の所有を経て、氏の没後、国に寄贈されました。現在、京都国立博物館で所蔵の本図は、その貴重さ故に館外に出されることは滅多にありません。

国宝室は、トーハクで初もうでイベントをやっていた時は、こんな混雑でした。
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イベント期間が終わって、ようやく通常状態に戻りました。極めて静か。
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それにしても、これほどまでに貴重な美術品が展示されているのだから、イベントに関わらず、もう少し人が来てもよいと思います。

《◉釈迦金棺出現図 1幅 平安時代・11世紀 京都国立博物館蔵
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仏涅槃図では、釈迦の入滅に間に合わなかった摩耶夫人が画面上部の天空に描かれているが、この釈迦金棺出現図は、その直後の場面にあたる。
釈迦入滅の際に沙羅双樹の片方は枯れ、もう片方は花を咲かせたとあるとおり、右の木(沙羅双樹はどちらも根本から4本にわかれていたとされる)は枯れ、左の木は花を咲かせている。釈迦に一番近い木の枝には、釈迦の遺品のひとつ、托鉢のための鉢を包んだ袋がぶら下げられている。金棺の正面には、供物を載せた卓、その左に仏衣を載せた机が置かれている。天には摩耶夫人を送ってきた勝音天子がいる。
釈迦は金色の光を放ち(丈光相)、体が金色に輝いている(金色相)。
仏陀の視線の先で、摩耶夫人が、右手に仏陀の遺品である錫杖を持って見上げる姿が、他の者よりも一回り大きく、衣も豪華に描かれている。摩耶夫人の前にいる青緑の衣を着た僧侶が阿難。その左には純陀供養が描かれている。
釈迦以外は小さく名前が描き込まれているので、見分けがつきやすい。純陀の下で同じポーズで猿が何かを捧げ持っているのが笑える。

3室 仏教の美術―平安~室町

両界曼荼羅図 2幅 鎌倉時代・14世紀
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両界曼荼羅は、真言密教の教義のよりどころとなる『大日経』(だい・にち・きょう)と『金剛頂経』(こん・ごう・ちょう・ぎょう)との二つの経典に説かれる内容を図絵化したもの。東西に向き合って用いられる。真言寺院では必備のため需要が多く、それに応えるために木版での大量印刷による制作も行われた。

日本密教の教えの中心ともなる大日如来を中央に配し、更に数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したもの。「胎蔵曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」と呼ぶ。

《◎不動明王像 1幅 平安時代・12世紀》
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平安仏画の雅な画風をしめす不動明王像の名品。とくに明王の着衣は、やわらかく色の変化をつけて彩色し、その上から彩色文様と繊細な切金文様をほどこしている。明王でありながら、表情等にあまりいかめしさを感じさせないのも、平安末期の特徴といえる。

赤く燃え盛る火焔光を背負い、憤怒相で右手に剣、左手に羂索を持つ。角材を組み合わせて岩座を表す瑟瑟座に座る。瑟瑟座に暈繝彩色が施されている。

《◎一字金輪像 1幅 鎌倉時代・13世紀
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成仏と除災のために修される一字金輪法の本尊で,真言密教の秘仏。繧繝彩色の蕨手形頭光を負い,隈が施された肉身は朱細線でくくられている。『金剛頂経一字頂輪瑜伽一切時処念誦成仏儀軌』に基づき,五智宝冠を戴き智拳印を結ぶ本尊を描き,四隅に宝瓶を配する。鎌倉時代仏画の特質は青・緑系統の冷たい色彩や細身の造形感覚に窺われる。

金剛界の大日如来であることから智拳印を結んでいる。二重円光の光背に蕨手形の頭光が繧繝彩色で描かれる。蓮華座に結跏趺坐している。

《聖徳太子像 1幅 南北朝時代・14世紀 山形・慈光明院蔵》

経幢と傘蓋を持つ二童子を従えた、三尊形式の聖徳太子像。聖徳太子の磯長廟における説話(生前の磯長廟巡見/磯長廟内で太子が中国・衝山から持参した法華経が光を放つ)を絵画化したもので「廟窟太子」とする説がある。

聖徳太子は、髪をみずらに結い、柄香炉を持って袈裟をつけた姿で描かれている。

《聖徳太子絵伝断簡 1幅 南北朝時代・14世紀》
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聖徳太子の事跡を描いた絵巻断簡で太子と愛馬黒駒(くろこま)の物語を描く。ある時、太子を驚かせてしまった黒駒が思い悩み、飲食もしなくなってしまった。太子は使者を送り、慰めの言葉をかけたところ黒駒は元気になったという。忠を尽くす、なんとも健気な馬である。

ColBase:聖徳太子絵伝断簡

衣冠束帯姿の聖徳太子。

聖徳太子絵伝断簡 1幅 南北朝時代・14世紀
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伊予藩主・久松家旧蔵の断簡。太子が44歳の時、長く太子の仏法の師であった高麗僧恵慈(こうらいそうえじ)が本国へ帰ることになる。本断簡は、二人が別離を大いに悲しみ、浄土での再会を約束する場面を描いている。

慧慈は、飛鳥時代に高句麗から渡来した僧。厩戸皇子の師となり、日本に仏教を広めた後、聖徳太子が著した仏教経典の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国した。国内に残る法隆寺の『三経義疏』は日本最古の肉筆遺品とされている。

十六善神図像 1巻 玄証筆 平安時代・治承3年(1179)
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十六善神は般若経の守護神として、釈迦を中心としてその左右に八体ずつ組み合わされて般若経転読を行う般若会の折の本尊として用いられる。本図はその十六善神に四天王を加えたもの。丸みのある強い体つきや愛嬌のある表情が特徴的である。

3室 宮廷の美術―平安~室町

《◎鳥獣戯画断簡 1幅 平安時代・12世紀
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現状の鳥獣人物戯画巻は,甲乙丙丁の4巻からなる。甲巻の内容は兎,猿,蛙などを擬人化した動物戯画で,12世紀中頃の成立と考えられる。抑揚のある描線を駆使した生命感あふれる画面は,日本の戯画を代表する作品といってもよい。当館所蔵の断簡は本来甲巻の一部であったと考えられるものである。

鳥獣人物戯画は京都市の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物で、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、ウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。甲巻は本来二あるいは三巻だったものが、伝来の段階で損傷し、現在残っているものは残存部分を一巻にしたものと思われる。本作では、カエル、キツネ、サルが花や葉を携えて歩いている場面で、現存の第16紙の前につながるものと推定されている。

《鳥獣戯画模本(甲巻) 1巻 山崎董詮模写 明治時代・19世紀》
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明治時代に模写された鳥獣戯画甲巻。展示部分は、第8紙から最後23紙まで。弓競技にかけつけるウサギの場面に始まる。次いで、逃げるサルをおいかけるウサギ、その後ろでには仰向けに倒れているカエルと、それを心配するウサギたちが描かれる。びんざさらを手に踊るカエルと観衆、ウサギとカエルの相撲、荷物を運ぶサルが向かう先は法要の場面。袈裟を着たサルの前にある本尊はカエル。最後は、法要を終えたサルにお礼の品を運ぶウサギたち。

《◉古今和歌集(元永本)下帖 1帖 平安時代・12世紀
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『古今和歌集』の仮名序から巻第20までを完存するなかで現存最古の遺品。和製の唐紙を使用した豪華な綴葉装(てつようそう)の冊子本で、もとの体裁をほぼ伝えている。筆者は、「巻子本古今和歌集」など、一群の名筆を残しており、藤原行成の曾孫定実とする説が有力である。

古今和歌集巻第十二 恋二
題不知 小野小町
おもひつゝ ぬればや人の みえつらん夢としりせば さめざらましを
うたゝねに 恋しき人を 見てしより 夢と云事は 憑(たのみ)そめてき
糸とせめて 恋しき時は うば玉の よるのころもを かへしてぞきる

素性法師
秋風の 身にさむければ つれもなき 人をぞ憑(たのみ) くるゝ夜ごとに
しもついづも寺に人のわざしけるに、せい真法師を導師にて待りけるにいひけることばを、

3室 禅と水墨画―鎌倉~室町

七言絶句「峯松」 1幅 一休宗純筆 室町時代・15世紀
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一休宗純は戦乱の世の中で、その奇行や破戒を通じて、既存の権力や権威を厳しく批判し、波乱の生涯を送った。その筆跡は多く伝わるが、この一首は晩年に近い時期のものと考えられる。

峯松
萬年大樹摠無
倫葉々枚々翠色
新琴瑟不知誰氏
曲雲和天外奏陽

一休子宗純老衲「一休」(朱文重廊方印)

《◯楼閣山水図屏風 6曲1隻 伝狩野元信筆 室町時代・16世紀》
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南宋の宮廷絵画様式の系譜に連なるこの狩野派の屏風には、美しい水辺に臨む水殿の中で筆を持って山水画を描く人物と、それを見つめる人物、侍童が見える。人里離れた静かな環境で、文雅の生活を送るという中国的な隠逸への憧れが表わされている。

ColBase:楼閣山水図屏風 

梅樹禽鳥図屏風 2曲1隻 筆者不詳 室町時代・16世紀
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岩や梅の描き方から、室町時代末から安土桃山時代にかけての狩野派の絵師による作品とみられる。作風は狩野松栄に類似し、作者は松栄の周辺で活動した絵師と思われる。この時期の障屏画の遺品として貴重である。

ColBase:梅樹禽鳥図屏風

4室 茶の美術

《◎色絵牡丹図水指 1口 仁清、「仁清」印 江戸時代・17世紀
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江戸時代のはじめ17世紀前半,京都洛西仁和寺の門前で御室窯を開いた野々村仁清は,瀬戸で学んだ轆轤の技に,色絵の技法を加え,王朝趣味も加えて典雅で優美な世界を作り上げた。この作は珍しく中国的な窓絵の構図を取りながら,仁清独特の入念な色絵が作り出した牡丹絵を描いて和様の趣をもたらす。華麗にして繊細さを兼供えた仁清色絵の代表作である。昭憲皇太后よりの寄贈品。

参考までに、初もうでイベント時の8室の混雑具合。
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昨年の初もうでイベント中よりは幾分ましな気がしました。

10室 浮世絵と衣装―江戸(浮世絵)

こちらは、初もうでイベント時の10室。
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普段よりは混んでいますが、見られないというレベルではありません。

《◎縄暖簾図屏風 2曲1隻 筆者不詳 江戸時代・17世紀 個人蔵》
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子犬を追い、つい往来まで出てきてしまった遊女は、藤花と流水をあしらった衣装で紙を立兵庫に結う。左の暖簾は修理の際に加えられたもので、もとは遊客の男が描かれていたと考えられる。源氏物語の一場面を下敷きにしながら、当世風俗に絵を移し変えている。

源氏物語というと女三宮と猫の下りのことでしょう。立兵庫でお歯黒に爪にも色があり、着物も刺繍の豪華なもの。とてもおしゃれに着飾っています。

《恵比寿と美人 1枚 奥村政信筆 江戸時代・18世紀》
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女が、遊んでいた羽子板の羽根(羽ごの子)を竹に引っかけたらしく、恵比寿が竹竿で取ろうとしている。

艶姿七福神・大黒 1枚 鳥居清満筆 江戸時代・18世紀
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鳥居清満は、鳥居派3代目。伝統的な鳥居家の様式を受け継ぎながら、繊細で洗練された美人風俗図を描いた。錦絵誕生を前にした宝暦(1751~64)年間、浮世絵界の中心にあって優美な紅摺絵で人気を博した。

遊女の手元にハツカネズミが描かれている。鼠は大黒天の神使であることから、この遊女を大黒天に見立てて描いていることがわかる。遊女も側に控える禿も、吉祥文様の着物を着ている。

新板浮繪七福神寶舟湊入之圖 1枚 歌川豊春筆 江戸時代・18世紀
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歌川豊春は、幕末浮世絵界最大の画派である歌川派の祖。はじめは鈴木春信風の美人画を描いたが、安永(1772~1781)頃から、18世紀前半の奥村政信らによる初期浮世絵より正確な透視遠近法による名所絵を描いた。晩年は肉筆画に専念したという。

初日が上り、財宝富貴を司る神である多聞天の帆を立てた船に乗った七福神が、寿の帆をたてた宝船を率いて倉の並ぶ岸に向かっている。空には鶴が舞い、水の中には亀がいる。正月らしくお目出度いもの尽くし。

《見立大黒・弁天・恵比寿 1枚 葛飾北斎筆 江戸時代・19世紀》
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女の弁財天、袋を担いでいるのが大黒だろう。となれば、右の頭に扇子をかぶせた男が恵比寿。赤い盃が鯛の代わりということか。よく見ると大黒様役の男は、鼠の形の根付を持っている。富士山が描かれた襖もあって、お目出度い画題のよう。

宝船の七福神 1枚 葛飾北斎筆 江戸時代・19世紀
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江戸時代には、吉運を招く夢を見るために宝船の絵を枕の下に敷いて寝る風習が広まった。上から読んでも下から読んでも同じというめでたい回文歌「なかきよの とをのねふりの ミなめさめ なミのりふねの をとのよきかな」が記された、吉祥画題の作品

回文歌「永き世の 遠の眠りの みな目ざめ 波乗り船の 音のよきかな」

《七福神 1枚 葛飾北斎筆 江戸時代・文化6年(1809)》
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左上に「邉仁之?子改 軒白梅」とあることから、改名披露の狂歌摺と思われる。一室に七福神が集まって、正月を楽しんでいる。寿老人と布袋と福禄寿が七宝を乗せた三方を囲んでいる。毘沙門は床の間に祀られた白蛇の体を持つ宇賀神に宝塔を備えようとしている。宇賀神の後ろには、桑楊庵と浅草庵と朝倉庵の狂歌三首の掛け軸が飾られている。大黒は鏡餅を運び、恵比須は鯛を押え、弁天は文を読んでいる。

《三升福禄壽・布袋 1枚 魚屋北渓筆 江戸時代・19世紀》
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三升福禄壽という揃物で、布袋を描いたもの。団扇を手にした笑顔の布袋が、大きな袋に寄りかかっている。布袋の体も袋のように膨らんでいて、どこが左腕なのかわからないくらい。人を駄目にするソファの原型を見たような。狂歌の他、蒲公英や芙蓉、福の文字などが枠外に描かれた吉祥画。

《合惚色の五節句・正月 1枚 喜多川歌麿筆 江戸時代・18世紀》
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正月の風物詩羽子板による羽根突きを描いた作品。美しく着飾った女性が正月に羽根突きをしたらクロムジの種子の羽が松の枝にかかってしまい取ろうとしているところである。羽根突きは奈良時代の宮廷神事が庶民の遊びに転化したものである。

ColBase:合惚色の五節句・正月

合惚色の五節句は、五節句にちなんだ風物と相愛の男女を描いた揃物。説明にある羽根突きの元になった神事とは、毬杖(ぎっちょう)というもので、槌をつけた木製の杖で木製の毬を相手陣に打ち込む。

七草 1枚 窪俊満筆 江戸時代・19世紀
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窪俊満は、国学者で南蘋派の絵を描いた香取魚彦の門人で、北尾重政に浮世絵を学んだ。黄表紙などの版本挿絵・錦絵・肉筆画など浮世絵のさまざまな分野で活躍したが、なかでも趣向に富んだ「摺物」制作に特徴がある。

豪華な着物を着た七人の女達。どうやら左端の女はすり鉢とすりこ木で七草を潰している様子。

《太夫の書初め 1枚 葛飾北斎筆 江戸時代・文化4年(1807)》
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お正月、太夫が頬杖をついて何を書くかと思いあぐねているのか、それとも、机の前の遊女が、火鉢の火で文を焼こうとしているのを眺めているのか。机の筆立てには孔雀の羽根飾りがある。掛け軸の飾られた床の間には兎の置物か飾られ、琴が壁に立てかけてある。刈り上げた禿が運んでいるのは炭斗でしょうか。

《七草売り 1枚 魚屋北溪筆 江戸時代・19世紀》
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頬かむりで煙草を咥えた物売りが休憩している。空の赤い陽は夕陽だろか。足元に置かれた商品は、七草なのだろう。足付きの鉢に植えられて札が付いている。

《梅見 1枚 渓斎英泉筆 江戸時代・19世紀》
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渓斎英泉は、はじめ狩野派を学んでいたが、菊川英山の門人となる。無名翁と称し文筆活動も行い、浮世絵考証の書『無名翁随筆』も著した。下唇を付きだし、切れ目の目尻をつり上げた妖艶な美人画や、漢画的筆法を取り入れた風景画で知られる。

《浪花名所圖會・今宮十日恵比寿 1枚 歌川広重筆 江戸時代・19世紀》
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歌川広重は、歌川豊広の弟子。役者絵や美人画も描いたが、人々の生活を詩情豊かに取り込んだ名所風景画で知られる。また、花鳥画にも優品が多い。作風は、市場はの叙情表現の影響を受けている。作品は海を渡り西洋の画家にも影響を及ぼした。

浪花名所圖會は大阪近辺を描いた名所絵の揃物。本画は、今宮戎神社(通称えべっさん)に正月の十日に参拝して福徳を願った十日恵比寿の賑わいを描いたもの。

名所江戸百景・霞かせき 1枚 歌川広重筆 江戸時代・安政4年(1857)
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霞が関二丁目にある霞ヶ関坂の風景。この地は、雲霞のごとく周囲の景観を一望できたから霞ヶ関と呼ばれたそうで、この画をみるとなるほどと思う。通りには武家の一行や、門松、凧上げ、寿司売りが描かれている。

《名所江戸百景・山下町日比谷外さくら田 1枚 歌川広重筆》
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現在の帝国ホテルあたりから日比谷公園に向かって眺めた風景。手前に松と羽子板、空に凧。お堀の先に武家屋敷の立派な白壁、遠くに白い富士山が見える。

冨嶽三十六景・江都駿河町三井見世略図 1枚 葛飾北斎筆 江戸時代・19世紀
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両側の建物は日本橋の三井越後屋(現在の三井本館と三越)。屋根を急角度で仰ぎ見、その大きさを強調しているが、正面に見える三角形の妻は実際には左を向いていた。向きを変えることで富士山との相似形をつくり、構図のおもしろさが生まれている。

看板に「現金 無掛直 呉服物品」「現金 無掛直 組物 糸類」と読める。瓦職人の動きの面白さ。空には凧、遠くに富士山がそびえる。

隅田川図巻 1巻 鳥文斎栄之筆 江戸時代・19世紀
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恵比須、大黒天、福禄寿の三福神が、柳橋の船着場から猪牙舟に乗って吉原に通う道中を描いた絵巻。隅田川の名所をめぐって進む画面は、狩野派を学んだ水墨主体の淡白な描写がなされ、桜満開の吉原での花魁たちとの遊興場面は、艶やかな浮世絵風で描き分けられている。
鳥文斎栄之は、五百石取りの旗本で、狩野栄川院(典信)の門人。鳥居清長の画風を学び、長身の美人を描き、歌麿に対抗する美人画家として活躍した。旗本などの武士の門人が多い。晩年は肉筆画に専念した。

柳橋の船着き場から隅田川を船で進み、両国橋、対岸の回向院、待乳山、そして山谷堀まで、そこからは籠で日本堤を通って吉原遊郭へ。絵は遊郭室内まで続く。日本堤の場面では、三福神の道具が籠からはみ出ているのが面白い。
実際の柳橋は両国橋の上流にある。

《見立七福神宝船 3枚 歌川豊国筆 江戸時代・18世紀》
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宝船は新年を表す季語。七福神に見立てた男女を乗せて、鳳凰の船首に寿と書かれた帆を立てた宝船が、倉の並ぶ川を進む。右端の女は、宝塔に見立て三味線の撥を立てて持っているので毘沙門天。その前の盃を持つ女は布袋。琴を弾く女が弁財天、福の字の赤い扇子を持つ男は釣り竿を担いで恵比寿。小槌と袋を持った女は大黒。文を手にする女二人のうち立っている方は、頭頂部に差した丸い櫛で福禄寿、となれば、もう一方が寿老人だろう。

《遊君子の日小松引之圖 3枚 喜多川歌麿筆 江戸時代・19世紀》
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遊君(ゆうくん)は遊女のこと。小松引きは、奈良・平安時代、正月初めの子の日に野山に出て小松を引き合った遊びのこと。小松の生える丘に立つ、艶やかに着飾った遊女たちが描かれている。禿同士が松を引っ張り合ったり、左端では、小松どころじゃない大きさのを引っこ抜こうとしているのを見て、笑っている。

《正月遊 3枚 鳥高斎栄昌筆 江戸時代・18世紀》

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鳥文斎栄之の門人で美人画を得意とした。とくに美人大首絵が際立っている。この三枚続きには注連飾(しめかざ)りが巡らされ、正月の設えとともに、羽子板や手鞠に興じる美人が優美かつ可憐に描き出されている。

 ColBase:正月遊

18室 近代の美術

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今年は、明治維新の「鳥羽伏見の戦い」から150年の区切りの年。東博でも関連の特別展が企画されているのでしょうか。楽しみです。

無我 1幅 横山大観筆 明治30年(1897)
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老荘思想に発し、禅の境地としての根源的な命題である「無」の絵画化、あるいは擬人化がこの作品のテーマとされる。日本の季節感のなかに「無」の理想を描こうとした大観の着想は、過去の人物画に直接的な手本を探せない、新しい絵画の創造につながった。

等身大の子供の絵。こんなに大きな絵だとは思いませんでした。

鷲猿 1幅 今尾景年筆 明治26年(1893)
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松の枝に降り立った鷲に驚いたのか、樹下で猿が飛び降りる様を描いている。
今尾景年は京都の出身で、初め浮世絵師の梅川東居に師事し、のち鈴木百年に四条円山派を学ぶ。花鳥画を得意とした。帝室技芸員・文展審査員・帝国美術院会員。

雪中の鷲 1幅 柴田是真筆 明治時代・19世紀
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是真は、幕末から明治初期において、蒔絵師としても絵師としても活躍した。ウィーン万国博覧会をはじめ、国内外の様々な博覧会で数々の賞を受けている。墨と白地のコントラストが生かされた背景に、獲物を狙う鷲の動きが写実的な描写で精妙に表現されている。

雪の積もる松の枝に止まった鷲の勢いで、枝葉に積もった粉雪が落ちる。その勢いに驚いて飛び降りたのか、栗鼠が雪の中に真っ逆さまに落ちていく。後に続いて落ちていく鷲の羽根が余韻を感じさせる。

狙公 2幅 橋本雅邦筆 明治時代・19世紀
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狩野派に学んだ雅邦が、伝統的な主題である猿回しを、旧来の描き方ではなく、忠実な写生をもとにして、猿回しとそれを見物する野菜売りの老人の動きを克明にとらえて描いている。雅邦は、横山大観(よこやまたいかん)らの若い画家たちの指導者として重要な立場にあった。

狙公(そこう)とは猿回しのこと。

松竹梅 6曲1双 横山大観筆 昭和13年(1938)
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松と梅を左右に配し、その根元に根笹を描く。金泥のすやり霞が横に棚引き、装飾性を増している。松の描写は安土桃山時代の画家、長谷川等伯(はせがわとうはく)の「松林図屏風」を彷彿させるが、大観は自然の風景を写実的に写すだけでなく伝統的絵画からも着想を得ている。

《五合庵の春 1幅 安田靫彦筆 大正9年(1920)》
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江戸後期の禅僧で歌人の良寛(りょうかん)は、諸国行脚の後、故郷の越後(新潟県)国上山(くがみやま)の五合庵に二十年ほど暮らした。木立に囲まれ、微かな光に包まれる小庵で、垣根の外からの村童の呼びかけに、良寛が顔をあげる。靫彦は、この庵の跡を訪ねた上で本作品を描いた。

手毬と持つ少女がいるのに、良寛の「霞立つ 長き春日に 子供らと 手毬つきつゝ この日暮しつ」を思い出す。

聖護院の庭 1面 浅井忠筆 明治37年(1904)頃
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聖護院は、京都市左京区にある本山修験宗総本山。浅井が京都時代のほとんどの時期を過ごした住まいは、そのすぐ東にあった。初夏の光のなかに咲きほこるつつじを捉えた水彩画の代表作である。

ColBase:聖護院の庭

木によりて 1躯 平櫛田中作 大正3年(1914)
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平櫛田中は岡山県生まれ。高村光雲らの影響を受けながら独学し、明治40年(1907)、岡倉天心の意向を受けて米原雲海・山崎朝雲らと日本彫刻会を結成した。本作は、大正3年の再興第一回院展への出品作。写実的な表現が高く評価された。

木の前で上半身を出して腕を組むポーズに、南方熊楠の有名な写真「林中裸像」を思い出したが、特に関連があるわけではなさそう。

《◎白磁蝶牡丹浮文大瓶 1口 三代清風与平作 明治25年(1892)
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三代清風与平(せいふうよへい)は、京焼の近代を代表する名工で、陶磁で最初の帝室技芸員(ていしつぎげいいん)となる。中国陶磁研究を基礎に独自の作風を確立し、この白磁にも与平の釉薬研究の成果が表わされている。明治26年(1893)シカゴ・コロンブス世界博覧会に際して作られた作品。

ColBase:白磁蝶牡丹浮文大瓶

《◎七宝富嶽図額 1面 涛川惣助作 明治26年(1893)
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涛川惣助(なみかわそうすけ)は並河靖之(なみかわやすゆき)とともに明治を代表する七宝作家で、帝室技芸員(ていしつぎげいいん)にも選ばれた。この額は涛川が1893年のシカゴ・コロンブス世界博覧会のため、臨時博覧会事務局の依頼によって作ったもの。シカゴでは美術館に「絵画」として展示された。

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涛川の絵とは珍しいと思って近づいたら、やはり七宝でした。

《◎黄釉銹絵梅樹図大瓶 1口 初代宮川香山作 明治25年(1892)
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明治初期から内外の博覧会で活躍した宮川香山は、明治20年代には金彩華やかな色絵と浮彫によるものから、気品漂うものへと作風を変えていく。この作品は香山の後期の代表作で、明治26年(1893)シカゴ・コロンブス世界博覧会の出品作。清朝陶磁に学んだ釉技で、格調高い世界を作り上げている。

ColBase:黄釉銹絵梅樹図大瓶

色も絵も実に優雅です。

 

正月の連休がすぎた途端、いつもどおりの閑散とした展示室に戻りました。
今回、国宝室にあった《釈迦金棺出現図》は、本来なら京都に行かなければ見られないものだし、展示期間も限られているし、特別展で出てきたとしても人だかりだろうし、もしかすると二度と観られない代物かと思うので、ソファに座って一人のんびり眺められて、とても贅沢な気分になりました。