狩野派 ─画壇を制した眼と手@出光美術館
最近ご無沙汰していた出光美術館へ行きました。
狩野派 ─画壇を制した眼と手(リンクはキャッシュ)を観ます。
2019年度の出光美術館の展覧会は焼き物と水墨画が多くて極彩色のキラキラしたものに飢えていたので、とても楽しみにしていました。
前情報によると、2020年度はオリンピックイヤーを意識してか賑やかになりそうなテーマが続いています。大いに期待しています。
本展は室町時代から長きに渡って日本美術の主流となった狩野派。本展は、出光美術館所蔵の狩野派の絵画を通して、絵師らが身近に接した古今の絵画がどのようなものであったか、それを彼らがどう扱い活用したかを表具や外題・添帖と共に紹介する。
加えて、2013年に東博で開催された江戸時代が見た中国絵画展を下敷きに本質主義・厳格主義に疑問を呈するテーマを含む。江戸時代の狩野派の鑑定を尊重した形で絵を展示し、「鑑定」の社会的・文化的な意義を問う。
以下、気になったものについてメモを残します(◉は国宝、◎は重要文化財、◯は重要美術品)。
第1章 模写の先へ ―狩野探幽「臨画帖」と原図
2《牛車渡渉図 一幅 南宋時代 絹本墨画淡彩 17.6×35.2 出光美術館》
流れの中を進む二台の牛車が描かれている。
以前「水墨の風」展でも観ている。あの時は照明が暗くてよくわからなかったが、今回は観やすかった。
3《瀑布図 伝 夏珪 中国・南宋時代‒元時代 一幅 21.5×51.2 出光美術館》
出光美術館で初公開作品。文化2年(1802)作成の養川院(狩野惟信)の外題と箱が併せて展示されていた。
4《◎臨画帖 狩野探幽 江戸時代 二帖 (各)40.6×56.3》
探幽が古典100絵を模写したもの。展示画面は6面あり、《倣夏珪山水図》や《牛車渡渉図》などが含まれ、実物と見比べられるのが面白かった。コピー機のない時代に、古絵を正確に模写し残しておくことが重要な意味を持つことを、探幽はわかっていたのだろう。
5《倣古名画巻 狩野惟信 江戸時代 一巻 34.8×1161.2》
本巻の16番目に《瀑布図》が「夏珪筆意」として描かれている。3の付属品は、本作の後に作られたもの。
第2章 正統をめぐって ―江戸狩野と京狩野
瀟洒淡麗な画趣を打ち出した江戸狩野と、濃密で重厚な表現を墨守した京狩野の画風の違いを理解する。
6《平家物語 小督・子猷訪戴図屏風 狩野尚信 江戸時代 六曲一双 (各)154.1×357.4 出光美術館》
両隻に共通して月夜に隠者を訪ねる意図が含まれる。右隻には屋内で箏で「想夫恋」を奏でる小督と彼女を探し求めて馬上で笛を吹く源仲国、左隻には、王徽之(王子猷)が一人酒を飲みながら詩を詠んで興が乗り、烏篷船で友人の戴安道が住む川岸の庵を訪れるが、門前で興が尽きて会わずに帰ったという故事を描いている。小督図の月が両画面を統合している。
尚信は探幽の弟で木挽町狩野初代。
7《馬上残夢・伊勢物語 住吉の浜図屏風 伝 狩野山楽(伝 松花堂昭乗賛) 江戸時代 六曲一双 (各)152.4×323.8 出光美術館》
右隻は蘇軾の故事に因み、馬上でうたた寝する高師とそれに連れそう従者が描かれている。岩や木の描き方に浙派の技法を取り入れている。左隻は伊勢物語の一場面で二人の従者を連れて男が海を眺めている。
山楽は京狩野家の始祖で養父の永徳の流れを組む力強い表現を得意とする。中国美術の主流や事実に基づいた描写を良しとする本質・典拠主義。
10《叭々鳥・小禽図屏風 狩野探幽 江戸時代 六曲一双 (各)155.1×361.4 出光美術館》
左隻の木々や岩はぼんやりと滲んで描かれている。徹底的な減筆で余白を活かした軽やかな画趣がよくわかる。
なお、《叭々鳥・小禽図屏風》の横にあったパネルに本展の趣旨説明として「今回まったく同じ作品でありながら、過去の展覧会や出版物などと異なる筆者名が示されている場合があるが、それは上記鑑識を尊重した結果である」とあった。キャプションの絵師名を信じるなということか。なんて恐ろしい展覧会。
第3章 古画をみる ―期待される権威の眼
狩野派は副業として和漢の絵画の鑑定を行っていた。所有者には権威の目による質の保証、絵師は実物を模写する機会が与えられることで、充実したデータベースがさらなる鑑定と制作に生かされるシステムが構築された。木挽町では添帖に金一両(現在の価値で十万円程)が求められたという。
12《鶏図 伝 銭選 室町時代 一幅 83.2×44.4 出光美術館》
画面いっぱいに原寸大の彩色された一羽の鶏が描かれている。永真(安信)の外題があり、『探幽縮図』に同じ構図のものが残されている。
13《竹石図 伝 檀芝瑞(玉畹梵芳賛)中国・元時代 一幅 46.0×28.0 出光美術館》
初公開作品。檀芝瑞は日本でのみ知られている絵師で、竹の絵が得意。吹墨による笹の動感が印象に残る。探幽が縮図を残している。
14《腹さすり布袋図 相阿弥 室町時代 一幅 83.2×44.4 出光美術館》
太鼓腹に丸い禿頭、乾筆で描かれた髭、離れた目に豚鼻と忘れがたい顔をしている。《◎紙本墨画布袋図 伝 牧谿》を相阿弥が模写したものであるが、手本より野卑た表情が印象に残る。似た構図のものが探幽の縮図に度々登場する。
15《杜甫騎驢図 伝 牧谿 室町時代 一幅 81.8×33.4 出光美術館》
驢馬に乗った詩人杜甫を描いたもの。頭を下げた驢馬、杜甫は右手に鞭を持ち、その先が驢馬の頭に届いている。雅信(勝川院)の添帖、探幽の縮図一巻が付属する。
17《倣銭選立葵図 狩野探幽 寛文10年(1670)一幅 36.4×73.2》
花や葉は横を向いたり斜めを向いたりしているし、枯葉も描かれている。横長の画面に淡彩で立葵のたおやかな様子が描かれている。探幽が模写したもので元本は現存していないが、『槐記』に近衛家熙が盛りの花ばかりでないことを評価したことが記されている。尾州徳川家御蔵品入札の記録が残されている。絵師の銭選は元代の画家。
25《竹截図 伝 梁楷 室町時代 一幅 67.4×25.9 出光美術館》
禅宗の六祖慧能が竹を切った後に悟りを得た様子を描いたもので、元本と思われる東博所蔵の《六祖截竹図》よりひとまわり小さいが、丁寧に写されている。安信の外題があり、箱書きは探幽とあるが自筆でない模様。権威を借りるのに、とうとう箱書きまで模写するようになったか。
26《◯羅漢図 伝 貫休 中国・元時代 三幅対 (各)109.0×51.6 出光美術館》
初公開作品の羅漢三幅対。本テーマで最も注目したい作品で、探幽の外題には「羅漢 三幅対 禅月学」とあり、安信の添帖には「拾六羅漢之繪禪月眞筆無疑者也 法眼永真 霜月四日 (花押)」とある。つまり、探幽の時代にはわからなかったことだが、安信が法眼と署名するようになる寛文2年(1662)以降では既に貫休の羅漢図が十六枚セット(禅月様水墨羅漢の一群)になっていることが、狩野家の模写データーベースによって判明していたことになる。
三幅対の左幅、伐那婆斯尊者を若冲が模写したものがパネルに示されていた。松と煙が若冲の得意な激しい動きのあるものに変わっている。
第4章 万能への道 ―やまと絵のレパートリー
28《吉野・龍田図簾屏風 狩野常信 江戸時代 六曲一双 (各)122.0×326.0 出光美術館》
屏風の中に簾をはめ込んだ大胆な屏風で、これを簾屏風または翠簾屏風と言う。右隻に桜が咲き乱れる吉野の山、左隻に紅葉が流れる竜田川が描かれている。まるで簾を透かしたらその風景が見えるのではないか思わされる。
29《◎四季花木図屏風 伝 土佐光信 室町時代 六曲一双 (各)152.8×313.4 出光美術館》
やまと絵風の絢爛な屏風。右隻には紅梅、松、紫陽花、甘草、左隻に竹、楓、薄、女郎花、萩、遠望に雪の積もる山が描かれている。画中に狩野探幽の極みがある。
30《源氏物語 賢木・澪標図屏風 狩野探幽 寛文9年(1669)六曲一双 (各)148.7×360.6 出光美術館》
やまと絵風の絢爛な屏風。右隻には野宮の六条御息所を訪ねて賢木を差し出す源氏と、鳥居の外で所在なさげに待つ従者の姿が描かれている。左隻には住吉大社に詣でる源氏の豪華な一行と、船上で一行を眺める明石の姫が描かれている。車の源氏は従者から書の道具を渡されている。
住吉大社の本殿の屋根に千木と鰹木がセットになって3本並んで描かれているのが面白かった。調べてみると山口県にある萩 住吉神社が似た形式の本殿を持っているようで、こちらは万治2年(1659)に大阪の住吉大社から勧請されていた。まさに探幽が生きた時代である。当時の住吉大社はこの形式だったのかもしれない。
31《定家詠十二ヶ月花鳥図帖 狩野探幽 江戸時代 一帖 (各図)23.7×33.5 出光美術館》
藤原定家の自選歌集『拾遺愚草』の月次花鳥和歌二十四首の歌意に基づいて描かれた図帖で、絵と詞が見開きになっている。展示は青柳と鶯の正月と、桜と雉の二月。
第5章 鑑定の難題 ―現代へと続く問い
37《竹虎図屏風 伝 賢江祥啓伝 周文(狩野探幽補筆)桃山時代 六曲一双 (各)154.4×361.6 出光美術館》
風にそよぐ竹林の中、二頭の虎が描かれている。右隻は前足を曲げて姿勢を低くして見上げる様子、左隻は後ろ足で頭を掻く姿が描かれている。長谷川等伯の作品であるが、紙中極に「竹虚繪屏風一双周文眞筆両片破損之処加予筆分修補者也」とあり、探幽が周文の真筆と鑑定し、加えて、破損した左隻両端を補ったことが書かれている。
39《◯山水図 伝 周文 室町時代 一幅 90.6×35.2 出光美術館》
紙本墨画淡彩。密度の高い表現に目をみはる。右手前、従者を従え驢馬に乗った高師が進む先は柳中のわずかに赤く彩色された楼閣。湖面を挟んで右斜上に視点を動かすと、楼門と船団が見える。左上には霧にかすむ険しい山がある。安信の添帖がある。
43《倣玉澗瀟湘夜雨図 伝 雪村周継 室町時代 一幅 27.8×83.4 出光美術館》
断簡の形を取りながらその他の部分は見つかっていない。添帖には探幽の割印が押され「斯八景之一軸学玉澗書圖而雪村模寫者真筆無…」とあり、玉澗の《瀟湘夜雨図》を雪村が模写したものと鑑定しているが、説明文には疑しいと書かれてあった。添帖後半には探幽も牧谿風に雪景を書いたと記してあるが、現存していない。
本展を通して、幾度となく目が覚めるような思いがした。
トレースだのリスペクトだのと昨今煩いご時世、当時の絵師が中国絵画の模写を重ねて研鑽して日本美術が発展した歴史を知れば、そういう批判があまりに軽薄なものだと知れる。
京狩野の本質主義・典拠主義が取り上げられていた。中国絵画に限らず海外で権威のある物に価値を見るのは日本古来からの傾向であるが、中国絵画の古典に学んで発展した日本画が中国画に劣らないのは事実である。そこに、日本における中国伝統文化(クレオール)の独特な発展の仕方そのものに目を向けることが肝心ではないかというメッセージが伝わってくるようだった。自分自身が本質主義に陥りがちなので、特に(この辺、日本人シェフが国産材料で作るフランス料理をミシュランの星でのみ評価するような話に通じると思いませんか)。
外部のお墨付きに安心するのではなく、自身の価値判断を主張し、さらに新たな多様性を育みつつ同時に受容していかなくてはならない時代が来ています。
帰りに、木挽町狩野画塾跡に寄ってみました。場所は歌舞伎座から一区画分南で、昭和通りとみゆき通りの交差点の北東側に当たります。
現在工事中で更地になっていますが、仮設間仕切りに説明書きが貼り付けてありました。
狩野画塾跡
所在地 中央区銀座五ー十三ー九~十四付近
江戸時幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(守信)、尚信、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。
木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(一六三〇)に江戸に召しだされ、竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永六年(一七七七)五代典信(栄川)のときに、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移って、画塾を開きました。
奥絵師四家のなかえでもっとも繁栄した木挽町狩野家は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集まりました。門人のほとんどは諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四、五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。
この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をしたは狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の狩野雅信(勝川)の門下生です。平成九年三月
中央区教育委員会
新型コロナウイルス感染防止のため、本展は後期展示を待たずして急遽公開期間終了となりました。あと数回は観に行くつもりだったのになあ。
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