東京都慰霊堂
夫が昔懐かしい惣菜パンが食べたいというので、朝ご飯は築地へ行って昭和のパンをいただきます。
コロッケサンドとたまご焼きそばパンです。
お腹が満ちたので、大江戸線で両国に移動しました。
目的地は両国駅A1出口から出てすぐの都立横綱町公園です。
両国国技館が近いので、つい「よこづな」と読みたくなりますが、よく見てください。「よこあみ」です。
こちらにある伊東忠太建築を見物します。
この日は梅雨前に真夏のような日差しでした。緑が眩しいのなんの。そして、風も強いのなんの。何度も日傘がお猪口になりかけました。
傘を抑えながら、必死にスマホで写真を残します。
横網町公園正門
門柱の脇には樹木の透かし模様が入った金属ゲートがある。
横網町公園案内板
復興記念館は外壁改修工事中で防護シートに覆われていました。今回は公園南側の東京都慰霊堂部分だけにして、北半分はまたの機会にいたします。
東京慰霊堂
東京都慰霊堂由来
東京都慰霊堂由来
この堂は、大正12(1923)年関東大震災の後に、東京市内で災害の最も悲惨であっとここ被服廠跡に、遭難し者のご遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられました。
そして、遭難者の霊を祀り、その加護によって今度このような災害の起こらないことを祈願するため、毎年9月1日の震災記念日に慰霊大法要を執り行い、併せて「焦土のなかから東京を復興させた官民の熱心な協力」の思い出をあらたにしようとしたものです。
ところが、その悲願も空しく、21年を経た昭和19年(1944)年の冬から、首都東京は戦争により空からの爆撃を受けて、関東大震災の数倍もの惨禍を被りました。
そこで、この戦災遭難者の霊と御遺骨を併せてこの堂に奉安し、昭和26(1951)年9月に名称を「東京慰霊堂」と改め、最も被害が大きかった東京大空襲の日の3月10日にも毎年東京都慰霊協会主催による慰霊大法要が行われるようになりました。*利用時間 9:00~16:30(年末年始休み)
*施設概要 竣工日 昭和5(1930)年4月30日
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造
延床面積 1,470m3 最高高さ40.9m
設計者 伊東忠太
納骨数 震災58,000体、戦災105,000体
震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、
東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し
東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であ
ると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の
道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として
五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇
には霊碑霊名簿等が祀られてある。
爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に
幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめた
のは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわ
たって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園
その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬
火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
昭和二十六年九月 東京都
東京都慰霊堂本堂
正門から続く参道。両脇に石灯籠を挟んで慰霊堂を真正面から撮影。お堂は神社仏閣様式で、唐破風向拝がある。
慰霊堂とその奥にある三重塔の先端が重なって見えるのが、手前の石灯籠の傘とシンクロしている。慰霊堂の屋根の反りの延長が石灯籠の天辺につながる様が美しい。
石灯籠
植え込みで囲われた台座つきの石灯籠。
春日型や織部型が混在した形。竿がわずかに膨らんでいるのが珍しい。これもきっとエンタシス好きの伊東忠太の設計なのだろう。
手水舎
花崗岩、昭和5年庚牛年9月造。
新型コロナ感染症対策のためか、水が抜いてあった。
狛犬
狛犬のように対で置かれているが、両方とも阿形で胸元に鈴があるところを見ると、どうやら中国獅子らしい。
胸元の飾り紐が背中に回って結ばれている。
小さく丸まった尾から毛束が三本、後脚に巻き付くように延びている。
舌が巻いて「れ」の形。
風雨で大理石が溶けている。
前脚で何かを抑えている。
台座に垂れ下がる尻尾の痕跡で、かろうじて仔獅子だとわかる。左側の獅子は玉を押さえている。
慰霊堂は鉄筋コンクリート構造で、日本旧来の宗教的様式を現す建築とすることを基本として作られた。向拝は折上格天井様で大型の吊灯籠が下がる。虹梁に当たる部分には蟇股様の装飾がみえる。
慰霊堂の扁額が掛けられ、賽銭箱が置いてある。
講堂は開かれていて自由に出入りできる。
内部は伊東忠太の代表作である築地本願寺と似た雰囲気。ここの竣工が1930年で、築地本願寺の起工が1931年であった。
平面図では奥行きのある長方形で、教会によくあるバシリカ様式(長堂式)である。側面に採光用の高窓があり、列柱が並んで身廊と側廊を分けている。
折上格天井から反花を連想させる照明灯が吊り下げられている。
出入り口の鎧戸。
入り口で振り返ると幻獣がいる。ここも忠太動物園。
三頭身で長い耳とマズルで豚鼻。球体の照明を抱えた姿がとても愛らしい。
お堂の角に建設当時の部材が展示されていた。説明板に2016年の耐震工事で外されたとあった。
ポケモンのひこうタイプっぽいのが、屋根の降棟飾りにあるらしい。
横網町公園のパンフレットにキャラクター化されたのが載っていた。
レイレイとかマモリュウとか愛称がついている。
お堂の側廊には震災や空襲の絵画・写真が展示されている。
ここに幾万もの焼死体が折り重なるように積み上がった現実があったことを悼み、二つの位牌に手を合わせた。
お堂の外に出て、屋根飾りを見る。
側面に回って講堂部分は丁字型になっていることに気がつく。一重裳階付の入母屋で丁字型、つまり撞木造である。そいうえば、善光寺も神式仏式を超えた様式だったなと、今更ながら思い出す。
三重塔
お堂の奥にある三重塔は、基部が納骨堂となっている。
基部が石垣を模しているため、天守のよう。
三重塔の基部には向拝付きの出入り口がある。
こちら側から見ると、まるで仏塔がメイン見える。寺院では三重塔がこうして施設の中心に据えられることはないので、ますます天守な気がしてきた。
幽冥鐘
幽冥鐘案内板
幽冥鐘の由来
この梵鐘は、関東大震災により遭難死した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。
また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。
その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由で大正14年(1925)年11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。
この鐘を安置する鐘楼は、昭和5年(1930年)8月31日に現在地に完成し、同年10月1日に「梵鐘始撞式」を行いました。なお、この一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段の尽力がありました。
仏教徒で著名な書家である王一亭氏の呼びかけで作られた幽冥鐘は、義援金と共にこの地に到着したが、資金不足で鐘楼が作られることなく、長く鐘が放置されていた。それを知った王一亭氏他は、作書画作品を展示売却して鐘楼の資金を用意したという。
鐘楼
鐘楼は、横網町公園の南門近くの小高くなっているところに建っている。
柵に囲われている上に木立が覆いかぶさっているので、観察するのが難しい。
鉄筋コンクリート製で四方開け放し。切妻屋根に瓦葺きで降棟の先に獣面。
褄は煉瓦で葺かれ、桔梗紋と唐草をモチーフにした五角形のレリーフが埋め込まれている。
丸みを帯びた巴蓋、大きく口をあけた獣面。
獣面の棟飾りが、中華模様のある甍棟を咥えている。
幽冥鐘
幽冥鐘の胴に刻まれた銘文も王一亭によるもの。拓本が復興記念館に収蔵されている。
伊東忠太建築物の中にあると、竜頭に自然と目が行く。
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