日本美術の流れ@東京国立博物館 本館

またまたゴールを東博に設定してウォーキング。南側、西郷隆盛像のある方から上野公園に入って進むと野球場があります。
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いつもと違う方向から歩いたからか、正岡子規の句碑を見つけました。この野球場は、正岡子規記念球場というそうです。

「春風や まりを投げたき 草の原」
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今まであまり気にしていなかったのですが、ゴールデンウィークに松山市に行ったばかりなので、何かピンと来るものがあったんでしょうかねえ。

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そして、いつもの風景。梅雨前の涼しさで、とても過ごしやすい日でした。
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ウォーキングで前回来た時は、くたびれて禄に観られなかったのですが、今回は単眼鏡も持ってきたし、二度目の余裕から余力十分で観賞に問題なし。 主庭のベンチで休憩した後、いつものように、単眼鏡を手に本館へ向かいます。

以下に、気になったものを記します(◉は国宝、◎は重要文化財、◯は重要美術品)。

本館 2室 国宝

《◉充内供奉治部省牒(円珍関係文書の内) 1巻 平安時代・嘉祥3年(850)》
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円珍が内供奉持念禅師に任命されたことを示す治部省の辞令書。通常、このような辞令書は作成されないが、円珍は、唐へ渡る際の身分証とする目的で、右大臣藤原良房に発行を頼んだ。
本作は、能書(書の巧みな人)が揮毫したもので、附属する円珍自筆の添記には、唐の高官がこの書を賛美して写したと記されている。

本館 3室 禅と水墨画―鎌倉~室町

《◎西王母・東方朔図 4幅 伝狩野元信筆 旧大仙院方丈障壁画 室町時代・16世紀》
下写真の右4幅。もとは京都大徳寺の子院、大仙院の書院の間の障壁画、故事人物図(現在は然幅)の一部。大仙院は名僧、古嶽宗亘が永正10年(1513)に隠居所として建てた塔頭で、故事人物図には東方朔、西王母、太公望、文王が描かれ、作者は狩野元信周辺の画家とみられる。
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《◎太公望・文王図 4幅 伝狩野元信筆 旧大仙院方丈障壁画 室町時代・16世紀》
上写真の左4幅。太公望は中国古代の軍略家。周の文王に軍師として仕え、武王のときにこれを助けて殷を滅ぼし、周建国に貢献した。隠遁し渭水のほとりで釣りをしていたところを文王に見出された。 

《◎拾遺古徳伝絵巻 巻第二 1巻 鎌倉時代・元亨3年(1323)》
浄土宗の祖・法然の伝記絵巻。法然とともに親鸞の事跡を詳しく描いている。法然の弟子で、浄土真宗を開いた親鸞の曾孫・覚如が鹿島門徒のために撰述した詞書が元になっていること、元亨3年に制作されたことが、奥書から知られる。
真宗の立場からつくられ、親鸞が法然門下の正統であることを主張したもので、両者の関係が詳しく述べられ、他の浄土宗系の「法然絵伝」とは内容を異にする。

本館 3室 宮廷の美術―平安~室町

《綱絵巻 1巻 室町時代・16世紀》
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室町時代以降に流行する御伽草子の一つ茨木童子の話。源頼光とともに酒呑童子を退治した渡辺綱の物語の後半部分。頼光が病にかかり、その原因が牛鬼だと分かって腕を切り落としに持ち帰るが、乳母に化けた牛鬼に取り返されるという話。牛鬼は黒く、角が一本で腰に虎の毛皮を着けている。

本館6室 武士の装い―平安~江戸

《金茶糸素懸威波頭形兜 1頭 江戸時代・17世紀》
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カブトムシの角のような面白い形が目を引きました。実は波と兎を意匠化したものだそう。まさかの、うさ耳兜。

本館 13室 刀剣

《◎刀 1口 粟田口国吉(号 鳴狐) 鎌倉時代・13世紀》
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短刀を大きくして反りをつけたような形。鎌倉時代の打刀と考えられる作品で、精緻な地金と直線的な刃文が粟田口派の特色を伝えている。山形藩秋元家に伝来。

《◯刀 1口 井上真改 江戸時代・延宝2年(1674)》
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井上真改は日向国出身の緒代和泉守国貞の次男で、はじめ和泉守国貞を名乗ったが、後に真改と名を改めた。沸の激しい浅いたれ刃を基調とした刃文を得意としたが、この刀は浅い互の目刃を焼いており珍しい。

《◉太刀 1口 福岡一文字吉房(号 岡田切) 鎌倉時代・13世紀》
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吉房は備前国・福岡一文字派のなかで華やかな丁子刃の作風を焼く刀工のひとり。その中でも、この岡田切はもっとも華やかな作風。号の由来は、天正12年(1584)に豊臣秀吉と戦った織田信雄が家臣岡田重孝を成敗したことによる。

《◎巴透鐔 1枚 信家 安土桃山時代・16世紀》
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鉄槌目地の丸形鐔で、三巴文を大きく透かし、地に小さな三巴文と菊花文を高彫であらわしている。

《枝垂柳猿猴透鐔 1枚 東龍斎清寿 江戸時代・19世紀》
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川のそばの柳の下、釣り竿を担ぐ猿。裏は月の下、魚籠を持つ猿が描かれているらしい。

《猿猴図目貫 1組 一宮長常 江戸時代・18世紀》
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こちらも猿。小猿を抱えて果実を口にする親猿と、果実を差し出す猿の組み合わせ。

《蝸牛図目貫 1組 田辺伴正 江戸時代・19世紀》
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殻の表からと裏からみたカタツムリを模した目貫。季節物ですね。

本館 14室 日本の仮面 舞楽面・行道面

雅楽の一種で、舞を伴う舞楽に用いるのが舞楽面、練供養や、これに類似した法会に用いた仮面を行道面といいます。奈良・手向山八幡宮、愛知・熱田神宮、愛知・真清田神社などが所蔵の舞楽面、和歌山・丹生都比売神社伝来の舞楽面と行道面を展示し、古代、中世の芸能の多様性と、仮面の彫刻的魅力に触れていただきます。

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《◎舞楽面 陵王 1面 鎌倉時代・弘安7年(1284) 愛知・熱田神宮蔵》
陵王は羅陵王、蘭陵王ともいう。舞楽の中で最も多く上映されていたため、面の遺品も全国に広く分布する。曲は一説に、中国・北斉の武勇の王蘭陵王長恭が、あまりの美男子だったために、怪異な面をつけて戦いに出陣したことに由来するという。

《◎舞楽面 納曽利 1面 平安時代・治承2年(1178) 愛知・熱田神宮蔵》
納曽利は双竜舞ともいい、二人一組で舞う。陵王と対で舞うことが多く、舞楽の中では最も一般的な演目。日本では奈良時代から舞われていて、面の遺品も全国に広く分布する。竜をかたどったものといい、まるく目をむき、鋭い牙をあらわしている。

《◎舞楽面 二ノ舞(腫面) 1面 平安時代・治承2年(1178) 愛知・熱田神宮蔵
二ノ舞は二人で舞う。案摩に次いで舞い、案摩のしぐさをまねるが、うまく舞えずに笑いをとる(「二の舞を演ずる」の語源)。面は皺を重ねて笑う老爺をあらわした笑面と、眉や頬を腫れあがらせて苦しみあえぐ老婆をあらわした腫面が一組になっている。

《◎舞楽面 抜頭 1面 平安~鎌倉時代・12~13世紀 愛知・熱田神宮蔵》
抜頭は一人で舞う。猛獣に殺された父の遺体を見て嘆き哀しむ舞とも、猛獣に復讐をとげて喜ぶ舞であるともいう。頭髪をふり乱して舞う激しい調子の舞。この面では痕跡が残るのみであるが、紐を撚ってつくった太い髪が肩にかかるほど長いのが本来の姿。

本館 16室 アイヌと琉球 アイヌの祈り

《ウミガメ頭骨 1個 北海道アイヌ 19世紀》
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海岸に暮らすアイヌは漁運を祈願するために、亀の頭を神(エチンケサパ)として祭った。頭頂骨を切断した後に削り懸け(ヤナギやニワトコなど色の白い木の肌を薄く細長く削り垂らしたもの)を詰め、さらに削り懸けで周囲を飾っている。

《巫者用の帯 1本 樺太アイヌ 19世紀》
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皮帯に飾り金具を縫い付け、さらに金属製の環を吊り下げている。動くたびに金属音がするが、この種の帯は本来シャーマンが神懸りする時に用いた。樺太アイヌでは女性が魚皮衣の上に締めるが、これを身につける女性もシャーマン的な性格をもっている。

《アイヌ鍬形 1個 北海道アイヌ  北海道栗山町角田字桜山出土 19世紀》
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本州で古代から中世の兜の前立てにつく鍬形を模して作られた、アイヌの人々の宝器である。病や災難を避けるための儀器として用いられるが、平素は強力な霊力をもつため岩陰や地中に秘匿されたという。本礼は畑の開墾中に偶然発見された。

《蝦夷紋別首長東武画像 1幅 蠣崎波響筆 江戸時代・天明3年(1783)》
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アイヌ鍬形を手にするアイヌの族長を描いたもの。
蠣崎波響(かきざきはきょう)は江戸時代後期の画家。北海道・松前藩主の子で、生まれてすぐに家老蠣崎家の養子になる。江戸で南蘋派の建部綾岱や宋紫石に学ぶ。以後、藩の要職にたずさわりつつ、花鳥や人物を描き続けた。

本館 18室 近代の美術

《家鴨 1幅 川合玉堂筆 明治30年(1897)》
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水辺で子供に水をかけられて、ひしめき逃げ惑う家鴨。手前に大きな木を配して奥行きを持たせている。

《玩弄品行商 1幅 川端玉章筆 明治26年(1893)》
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お面、風車、独楽、人形、提灯など玩具を売りに来た行商人の出店の周りに、子供や仔犬が集まっている。明治26年(1893)シカゴで開催された世界博覧会に出品したもの。色も美しく、着物の柄の細部まで丁寧に描かれている。男の子はくりくりに頭を剃られ、耳の後ろとうなじだけ残した奴にされている。

《江戸山王祭 1幅 尾形月耕筆 明治26年(1893)》
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日枝神社の山王祭の二十一番山車、羅陵王が描かれている。
尾形月耕は大正期の浮世絵師。こちらも、明治26年(1893)シカゴで開催された世界博覧会に出品したもの。

《◎近江八景 8幅 今村紫紅筆 大正元年(1912)》
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第6回文展に出品された2等賞を受賞した紫紅の出世作。西洋の印象派を思わすような点描法で、新南画とよばれる明るく豪快な画風を展開した。近江八景は、近江国(滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだもので、江戸時代には既に馴染みの画題であるが、紫紅は従来の観念にとらわれず、ぞの風景を描いている。

《東京十二題 川瀬巴水筆 (1883~1957)》
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東京十二題は、駒形、新川、山王、井の頭、大根河岸(京橋)、品川、木場、深川、戸山、白髭の渡し、寺島村、あたご山の風景を描き、江戸の名所に加えて都市として拡がり変貌する東京の姿を季節感たっぷりに写し出している。
それにしても、寺島村の雪景色を見ると、東京もこの時代はたっぷりと雪が降っていたのだなと、改めて思います。

《群鷺図額 1面 加納夏雄作 明治25年(1892)》
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加納夏雄は幕末から明治にかけて活躍した金工師。明治維新後の新政府から新貨幣の原型作成を依頼されるなど、高い技術が認められていた。こちらも、明治25年(1892)シカゴで開催された世界博覧会に出品したもの。

 

運動した後だったので、たっぷり休憩を取りながら一日かけてゆっくり本館を回りました。普段は足早に過ぎるところまで回れて、思いの他、満足しました。