鵜戸神宮:日向三代を巡る旅 その13
- 鵜戸神宮
- 一の鳥居
- 二の鳥居
- 授与所
- 神犬石
- 神門
- 斎館と社務所
- 楼門
- 千鳥橋
- 手水舎
- 石灯籠
- 玉橋
- 霊石亀石と運玉
- 三の鳥居
- 拝殿
- 本殿
- 皇子神社
- 九柱神社
- お乳岩
- 産湯の跡
- お乳水
- 住吉神社・火産霊神社・福地神社
- 宝物殿
- 鵜戸稲荷神社
- 恵比須神社
- 吾平山陵
鵜戸神宮
鵜戸神宮は宮崎県内では高千穂峡に次いで観光客(年間約100万人)が多い観光地である。全国でも珍しい下り参道があり、日向灘に面した断崖の中腹にある岩窟に本殿が鎮座する。
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を主祭神とし、相殿に大日孁貴(天照大御神)、天忍穂耳尊、彦火瓊々杵尊、彦火々出見尊、神日本磐余彦尊を祀る。
創祀の年代は不明だが、古代から海洋信仰の聖地であったとされている。古くは仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、仁王護国寺は、光喜坊快久が第一世別当となって以来九世までは天台宗、後三代は真言宗仁和寺門跡が別当を兼摂して以後真言宗の別当がつぎ、二十九世別当頼祐法印の時になって新義真言宗智山派に転じた。そのころから鵜戸山大権現は宇内三大権現の一つで、両部神道の大霊場として広く知られ、西の高野山とまで言われるようになった。明治の神仏分離で権現号を廃し、六観音を安置した本地堂はじめ十八坊を教えた堂坊は廃止毀却され、仁王門は焼却されて、鵜戸神社と改称した。
桓武天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」の勅号を賜ったとあるので、権化神が祀られるということは当然本地垂迹説が広まった後、つまり奈良時代後期以降の創立となる。しかも、当時は神社とは認識されていなかったのだろう。当然、延喜式に名前はない。
明治期までは近郷の新婚旅行で、花嫁が盛装して美しい尻掛を置いた馬の背に乗り、花婿が手網をとるシャンシャン馬道中があった。
『日向國鵜戸山畧圖』には速日峯、エボシ峠といった山名や海岸の観音石、扇石、不動石といった岩石名、当時参道に並んでいた寺院や観音堂、鐘楼などが詳しく描かれている。
雨上がりの青空の下、日南市から国道220号を北上して日南海岸をひた走る。
さすが南国宮崎。海の色が違う。
一の鳥居
鵜戸交差点を右折し岬に向かうところに朱色の明神鳥居が立っている。
笠木は黒く、島木は白い
この先の道路は狭く、大型車は通行禁止。対向車に気を配り、時には路肩に車を寄せてやり過ごしながら進むしかありません。大晦日でもひっきりなしに対向車が来るのだから元旦は一体どんな酷いことになるんだろう。
鵜戸岬灯台を過ぎ、下り坂を進んで第一駐車場へ。
二の鳥居
駐車場脇に朱色の明神鳥居がある。
笠木と根巻は黒、島木は白で社紋の十六菊が三つ入る。笠木には雨覆いが施されているが、それほど目立たない。
参道にはお土産屋が立ち並ぶ。
授与所
境内に入ってすぐに御朱印受付およびお守りの授与所がある。
稲荷神社、恵比須神社神符授与所とある。
境内にはお土産屋が多いが、それとは別に初詣に向けての出店も多く並んでいた。
神犬石
参道の途中、海側に締め縄が張られた岩がある。
八丁坂(本参道)から本殿を御守護するように見えることから神犬石と呼ばれている
神門
参道を進むと朱色の門がある。手前には正月に向けて変わった門松が飾られていた。
飫肥藩に由来する古式の門松で、クズマキかずらで束ねた節木が置かれ、高く立てられた細竹の間に縄が張ってある。「つるは広くしっかり根をはるように、縄は絆を強め笑顔絶えない生活を、また縄のワラは向かって右側(海側)より七本・五本・三本という縁起のいい数の順で下がっています」とのこと。その他、橙と楪で「代々子孫に譲る」、椎は「楽しい」「嬉しい」を意味する。
神門は三間一戸八脚門である。
戸口左右に随身(矢大臣)が置かれている。
左が赤い衣で口を閉じた右大臣、右は黒い衣で口を開けた老形の左大臣である。
斎館と社務所
左が斎館で装束や神饌がおいてある。右が社務所。
国指定名勝案内板
国指定名勝 鵜戸 平成29年10月13日指定
名勝鵜戸は、日向灘に突き出た岬で、古来より南九州各地から厚い信仰を受け、修験の場としても栄えてきた。また、日向神話の海幸山幸神話の舞台として、鵜戸神宮本殿が建つ洞穴(隆起海食洞)や亀石、お乳岩や速日峯陵(主祭神陵)、周辺の玉依姫陵伝承地(宮浦古墳)などが伝えられている。
名勝の中核をなす鵜戸神宮は、南九州を代表する神社である。鵜戸神宮の社伝には延暦23年(804)に社殿を再興したとあり、近世には飫肥藩主伊東氏の庇護のもと造替や改修が行われた。明治維新までは、鵜戸山もしくは鵜戸大権現と呼ばれ、境内の仁王護国寺を仁和寺が所管し、神門に至る八丁坂参道の両脇には18の寺坊が並んでいた。
宮崎市青島から日南市風田にかけての日南海岸には、宮崎層群(約1200万年前から150万年前までの間、深い海底で砂の層と泥の層が交互に堆積した層)のなかでも古い時代の地層が露出しており、この砂岩泥岩互層が波の浸食を受けて形成された波食棚や海食洞、ノッチ(岩が窪んだ地形)が随所に見られる。鵜戸崎の南面に見られる波食棚は、鵜戸千畳敷奇岩(鬼の洗濯板)と呼ばれ、県の天然記念物に指定されている。
古からの自然景観と神話を背景とした鵜戸の地は、今も多くの人々から厚い尊崇を受け、また、景勝地としても多くの人々を惹きつけており、古くからの旅行記や日記等にその様子が記されている。このような特徴的な地形及び地質によって形成された風致景観は、その観賞上の価値が高く評価されることから、平成29年10月13日、国名勝に指定された。
日南市教育委員会
楼門
参道をさらにすすむと、二階建ての楼門が見えてくる。
楼門は朱塗り銅板葺入母屋造り。
初層上層とも桁行三間の梁間二間。左右に袖塀がつく。
二階には、来年の干支であるネズミと「鎮慶重暉」の文字が入った絵馬が飾られていた。
この二階部分の左右には門守社がそれぞれ祀られているという。
楼門の前に古い石灯籠がある。
火袋に一六菊紋、竿には「御武運長久」、基礎に「紙開発願主 大阪住油屋善兵衛」の文字が見える。
市指定建造物案内板
市指定 建造物
鵜戸山石灯籠のうち紙開発石灯籠一対飫肥藩は、寛政十二年(一八〇〇)に産業開発の一政策として楮栽培および紙の開発を計画した。そこで、大阪の両替商油屋善兵衛から資金の提供を受け、飫肥藩内で生産された和紙を大阪で善兵衛が飫肥藩の蔵元として販売し、事業は順調に拡大された。
紙開発灯籠はこの事業の成功を祈念して、天保三年(一八三二)に善兵衛が鵜戸六所権現(鵜戸神宮)に奉納したものである。灯籠には油屋一族とともに飫肥藩の大阪蔵屋敷の役人達の名前も刻まれている。昭和四十五年十一月三日 指定
日南市教育委員会
楼門を脇から参道の先を覗く。
楼門や柵に塗られた鉛丹、山の緑、空と海の青が見事なコントラストを作る。
鵜戸神宮御由緒・おちち岩案内板
鵜戸神宮御由緒
主祭神 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊
当宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ その後第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧光喜坊快久が勅令によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜わった。
また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外本堂には六観音を安置し、一時は「西の高野」とうたわれ、西都神道の一大道場として、盛観を極めていた。
そして明治維新とともに、権現号、寺院を廃し、後に官幣大社鵜戸神宮 にご昇格された。
母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」は、いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産、育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。又、霊石亀岩の背中に運玉を投げ見事にはいると願い事が叶うという伝えがある。
このほか、 念流・陰流の剣法発祥の地として、厄除・漁業・航海の守護神としての信仰は愈々篤く、今後とも神秘な霊気によって人々の魂を高めて行くであろう。鵜戸神宮社務所
霊石「おちち岩」
当神宮ご祭神の母君「豊玉姫命」が、洞窟に造った未完成の産屋でご出産の際、父君「彦穂穂出見尊」がのぞいてしまいました。
そのため母君は故郷の海の国へ帰らなければならず、その際お生まれになったご祭神への愛情と健やかな成長を願い、ご自分の両乳房を洞窟内にくっつけていかれたといわれています。現在も絶えず石清水がしたたり落ちる神秘の岩。洞窟内の、ご本殿裏に回るとご覧いただけます。
参道から岩が作る白波を眺める。
千鳥橋
この先、参道がならだかに下っていく。
鵜戸神宮は、下り参道の神社としても有名である。
手水舎
石灯籠
灯籠十基を慶安元年八月、飫肥藩主伊東祐久公が寄贈した。
神橋案内板
神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋)
この神橋は、神仏習合時代には金剛界三十七尊の御名が書かれた三十七枚の板が配してありました。
この神橋を渡ると御本殿に至る急な石段です。
これより先は、古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。
かつては、橋の手前から履物を脱ぎ、跣でお参りをしていました。
今はその習慣はなくなりましたが、その心は生きています。
お参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され、御加護を受けられるといわれています。ようこそおいで下さいました。
この神橋と石段、どうぞ足元に注意して下りられごゆっくり御参拝下さい鵜戸神宮社務所
玉橋
狭い朱色の太鼓橋。橋の左脇から橋下をくぐって、海を眺めることができる。
玉橋の反橋は三十六枚あり、これが金剛界三十七尊のうち三十六尊を表し、橋を渡る本人が一尊となって三十七尊の仏を表すという言い伝えがある。
玉橋の上から断崖と海食洞が見えた。
海蝕した崖にはコンクリーションがたくさん見える。
急な階段を降る。
階段途中から海を見る。
この辺一帯は砂岩であるため、海蝕がすさまじい。
階段下から見上げる。
当然、帰りはこれを登るわけで。
霊石亀石と運玉
玉石から続く階段の下で、多くの人が眼下の岩に向かって玉を投げる。
運玉を買う。5個で100円。
男は左手で、女は右手で投げる。
穴に入らずとも、岩に乗れば願いが叶うという。
穴に入った運玉は定期的に回収されて、天日で干される。
「幸の玉御守」として授与所で扱いがある。
目の前の岩を見て、ふと宮崎市内の平和台公園にある平和の塔(八紘之基柱)を思い出した。
三の鳥居
洞窟の入口には明神鳥居が立っている。
笠木と根巻は黒、島木は白で社紋の十六菊が三つ入る。笠木には銅板の雨覆いが施されている。
県指定建造物案内板
県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 宮崎県教育委員会(平成7年3月23日指定)
鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟内に建てられている。
本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代に創建し、桓武天皇の勅命により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。中世には、「鵜戸六所大権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711)に飫肥藩五代藩主伊藤祐実が改築したものを明治23年(1890)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967)に修理したものである。平成9年度(1997)には屋根や内装等の修理が行われた。このように幾度の改修を実施したものの、岩窟内に見事に収めた権現造風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。説明板管理者/道なん市教育委員会 電話0987-31-1145
拝殿
洞窟の屋根ぎりぎりに朱塗りの八棟造り(権現造り)の社殿が建っている。
拝殿は銅板葺入母屋造りで千鳥破風と唐破風がつく。
社殿は極彩色の彫刻で飾られている。
木鼻の龍が可愛らしい。
他の獏や獅子もよい味を出している。
天井画は龍である。
内部は様々な彫刻があって実に賑やか。
本殿
社殿の横に回り込み、側面から幣殿と本殿を見る。
洞窟の高さぎりぎりに屋根がある。よくもまあこんな所に、これほどまでに立派な社殿を作ったなと感心する。
鵜戸神宮本殿の案内板にあった平面図とは違いがある。最後方の切妻屋根部分は後に増築されたものかもしれない。
参考までに、別の日の社殿側面。
社殿の裏に回る。
銅板葺切妻造りの部分が増築部である。
皇子神社
本殿左側に鎮座する。小さいながらも立派な社殿。朱塗り銅板葺切妻造り一間、千鳥破風に唐破風の向拝を供える。
神武天皇の長兄、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。
九柱神社
朱塗り9間長屋造りで銅板葺切妻屋根を持つ。
伊耶那岐命が阿波岐原で禊をした時に生まれた九柱(神直日神、大直日神、伊豆能売神、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神)を祀る
お乳岩
洞窟の天井から延々と水が滴る。
お乳岩
母性愛から御子(御主祭神)の為に御母君豊玉姫が両乳房を岩にくっつけて行かれたと伝わる
産湯の跡
主祭神鵜草葺不合命が生まれた産屋と伝わる。
賽銭箱の下に洞がある。
お乳水
この水を使って、当地名物のお乳飴が作られる。
住吉神社・火産霊神社・福地神社
チタン板張りの屋根が珍しい朱塗り三社流れ造り。塩害が激しい環境であることから、2019年1月に耐腐食に優れる新日鉄住金社製チタン材に葺き替えられた。今後神宮本殿でも同様の改修が検討されているという。
御祭神は、住吉社が底筒男神、中筒男神、上筒男神、火産霊社が火産霊、副智社が仁徳天皇を祀る。
宝物殿
左に神武天皇御降誕傅説地の碑、右に古狛犬。
碑の前にはコンクリーションが置いてあった。
古狛犬は、江戸時代後期文政八年(1828年)の土砂崩れにより海中に沈んだものを引き上げて修復したもの。
狛犬の傷みが激しい。
鵜戸稲荷神社
階段に朱塗りの稲荷鳥居が並んでいる。
階段下の狛犬。
阿型は口の中に玉があり、吽型は前足で玉を抑えている。
階段最上段に笠木と根巻が黒い明神鳥居がある。
鵜戸稲荷神社の玉垣には棟門が付いている。
四本の支柱がある。
社には狛狐が飾られていた。
恵比須神社
吾平山陵
参道脇、楼門の近くにあった吾平山上陵案内板。
吾平山上陵
鵜戸陵墓参考地
本宮御主祭神日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を葬め奉ると伝う
此處より仰ぐ神域の最高地速日峰の頂に在り
此處より約三百五十米自然林の中青苔を踏んで登る
宮内庁書陵部の管轄で陵守部が置かれている
鵜戸稲荷神社の側にある白木の神明鳥居が吾平山陵への登山口である。
奥にスズメバチにご注意下さいの看板あり。夏場は要注意です。
吾平山御稜・波切神社案内図
ここから吾平山稜まで375mと書いてあったので、軽い気持ちで階段を登り始める。
途中までは比較的楽な階段だったが、途中からは角石を渡る方が辛そうな山道になる。
前日が雨だったので苔むした石段は滑るし土はぬかるんでいる。山向きの格好でもないし登山向きの靴でもなかったので、後悔は早かった。
飛び石の段差がとにかく大きい。木の根の間を通った方が楽なため、靴は既に泥まみれ。
ロングスカートの裾が汚れそうなので、たくし上げて登らないといけないし、コートも次第に重くなる。ちなみに日常的に楽に10キロ走る体力があるんだが。
うんざりしてきた所で、ようやく山頂らしき光がみえた。
ゴールが見えたので、あとは気合で登る。
ようやく到着。登山口からの所要時間は12分でした。
鵜戸陵墓参考地は、鵜戸神宮の御祭神鵜草葺不合命の陵墓と伝えられている。
宮内庁による注意書き。
宮内庁御陵墓参考地となっているのは鹿児島県吾平町の吾平山陵が治定されたため。明治28年に鵜戸神宮の陵墓は伝説地と指定された。
玉垣で囲われているのみ。鳥居はない。
前方後円墳だという説もあるが、自然の山にしか見えない。
前方後円墳だとしたら3、4世紀のものになるので、ますます時代が合わないような。
帰路はさすがに息は切れないものの、濡れた急斜面が滑りやすく、いつ尻もちをついてもおかしくない状況で緊張しました。この後、とても波切神社に向かう気力はありませんでした。
靴がひどく泥まみれで、それが一番のダメージでした。
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