船橋大神宮
船橋市の京成船橋駅から京成津田沼駅方面へ一駅進み、大神宮下駅で降りた。そこから徒歩数分で船橋大神宮に着く。
道路に面して神明型の石鳥居がある。
正式には意富比神社(おおひじんじゃ)といい、御祭神は天照皇大御神である。
意富比神社は『江戸名所図会.第四 巻之七 三六七 – 三六九頁』には3ページに渡って当時の様子が描かれ、本殿祭神が天照皇大神宮と豊受大神宮、二座相殿で左八幡大神宮、右春日大明神と記されている。
由緒として、景行天皇四十年、日本武尊が東国平定の途中に海上の舟から神鏡を発見したとある。『江戸名所図会』には『意富比神社初鎮座地』として、「船橋駅舎の入口、海神村御代川氏某が地にあり」「今意富比神社の地より此所迄八丁許あり」と書かれている。
『江戸名所図会.第四 巻之七 三六〇頁』
元は、現地よりも西の方にあったらしい。
意富比神社
石灯籠が並ぶ参道を進み、数段階段を上がると島木神明鳥居がある。
柱に転びがあり、笠木と平行に島木がある。
この鳥居の右に「船橋大神宮」と書かれた社号標、両脇に一対の狛犬がある。
明治14年奉納。左右どちらも獅子で江戸流れタイプで吽形の子取り。
大変愛らしいお顔をしています。
さらに参道を進む。境内には松が多い。
手水舎
銅板葺切妻造り四方転び開放し。珍しいことに妻入り。
神門
神門は切妻造りの四脚門で玉垣と接続し、拝所となっている。銅板葺の屋根には内削ぎの千木、6本の鰹木がある。
神門の右脇に由緒案内板と境内図がある。
船橋大神宮(意富比神社)由緒案内板
船橋大神宮(意富比神社)由緒
景行天皇の御代四十年に皇子日本武尊が東国御平定の途次此の地に到らせられ、伊勢皇大神宮の御分霊を奉斎なされ、同五十三年に天皇御東行の砌、日本武尊の御事蹟を御追憾意富比神社の称号を賜る。
後冷泉天皇御代天喜年間には、源義家、頼義両朝臣当宮を修造せられ、亦、仁平元年には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之を奉じて当宮を再興、其の文書には船橋伊勢皇大神宮とある。
日蓮上人は宗旨の興隆発展成就の為当宮にて断食祈願を行い、徳川家康公は社領を寄せられ奉行をして本殿、諸末社を御造営せしめ、近く明治天皇陛下には習志野、三里塚へ御行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされる。
現在の御社殿は維新の戦火に罹災後、明治7年に本殿、同二十二年に拝殿が竣工し以後、大正十二年、昭和三十八年、同五十年に各々社殿、末社、鳥居、玉垣等に至る迄の大改修或いは御神泉の奉納、灯明台(県民俗資料指定)の修復等を経ている。
昭和五十六年十月二十日
宮司 誌
境内図
案内板に描かれている鳥居はことごとく明神型。
社殿
拝所から社殿を覗く。
獅山
社殿の前の斎庭に見事な獅子山狛犬がある。
向かって右側の山頂の獅子。江戸流れの構え型。
出雲獅子とは異なり、尾が立たない。
頂きを上る子獅子。
獅子山と拝殿の間にもう一対。
こちらは構え獅子。巻尾や尾の形が江戸流れの系譜で、出雲の構え獅子とは異なる。左の獅子は肘を付いて手を上げる独特な姿勢。
拝殿
銅板葺切妻造りの拝殿には向拝がつき、屋根には内削ぎの千木と8本の鰹木が置かれている。拝殿前に方形の天水鉢。
本殿
右隣の常磐神社から玉垣越しに本殿を見る。
神明造りの平入り。銅板葺の切妻屋根で棟柱があり、高床に作られている。屋根には内削ぎの千木。視界が取れず、鰹木の数は不明。
『江戸名所図会.第四 三七三頁』に描かれた本殿。
仮殿
本殿の裏にある。
神明造り妻入りで一間の向拝がついている。元は境内社外宮の社殿であった。
境内摂末社
神輿庫
神輿が二基納められている。左が本町八坂神社の神輿、右が湊町八剱神社の神輿。この神輿自体が神社そのもので、神様は常に神輿に鎮座されている。
金刀比羅社
瓦葺き入母屋造り妻入り。仏教の神に由来する金毘羅神の信仰なだけあって、社殿が寺風。
五間長屋造りの境内社が二棟並んでいる。
神社合祀で近郊の神社がまとめて祀られたもの。
手前5社は八幡神社、竈神社、龍神社、道祖神社、多賀神社・客人神社、奥の5社は岩島神社・住吉神社、祓所神社・春日神社、香取神社・鹿島神社、玉前神社・安房神社、天満宮・天神社である。
船玉神社
玉垣に囲まれた中に社殿があり、銅板葺切妻造りで切妻の向拝がつく。拝所部分が帆先の形をしている。御祭神は天鳥船命と住吉命。
奥にある五間長屋造りのお社は、右から産霊神社・水神神社、大国主神社・事代主神社、大山祇神社・阿夫利神社、岩長姫神社・祈念穀神社、根神社・粟島神社である。
大鳥神社
石製の神明鳥居があり、玉垣で囲われている。
一間の銅板葺流造り。御祭神は日本武尊である。
水引虹梁の上の中備に龍、木鼻に獅子の彫刻がある。
常磐神社
意富比神社社殿の右隣に、大きく板垣で仕切って常磐神社がある。
参道に石製の扁額付きの明神鳥居がある。
社殿は徳川家康公400年記念事業として、東照宮を模した絢爛な姿で造営された。
御祭神は日本武尊、徳川家康、徳川秀忠である。
玉垣の組木の間から本殿を見る。
社殿は千葉県建築文化賞優秀賞を受賞している。
それにしても「常磐」とは不思議な名前だ。徳川家康も秀忠も三河の出で、水戸家の勢力が強い常磐(常陸国、磐城国)とは関わりがなく、本来は「東照宮」であるはずのもの。
元和八年(1622)、第二代将軍・徳川秀忠が、当社境内に「常磐神社」を造営。創建当時は、第二代将軍・徳川秀忠によって、当社を庇護した家康(東照宮)が祀られ、寛永十六年(1639)には第三代将軍・徳川家光によって秀忠が祀られたとある。
時代的に常磐国とは一切関係なく、永遠を意味する以上のものではないようだ。
灯明台
高台に木造瓦葺き3階建ての灯台がある。浅間山灯明台である。
幕末まで船橋沿岸を航行する船は、意富比神社境内にあった常夜灯を夜間航海の頼りにしていたが、本殿と共に戊辰戦争で焼失した。その後、明治13年(1880)に再建し明治28年に廃止されるまで私設灯台として活躍したという。
今昔マップ on the Web の明治42年測定の地図で船橋大神宮を探し、「大神宮」の文字を赤く囲った。
比べてみると、現在は埋め立てが進んで海岸線がずいぶんと南に下ったのがわかる。境内にやたら松が多いのも、海が近かった名残りというわけ。
天之御柱宮
木製の神明鳥居と石製の社号碑があり、一段高く造られたところに一間の銅板葺流造りの社殿がある。
御祭神は天之御中主神。別天津神にして造化三神の一柱で、『古事記』にのみ登場する。
ずいぶんと珍しい神様を祀っているなと調べてみたところ、この神を祀るようになったのは近世に入ってからで、多くは北極星の神格化である妙見菩薩と習合して妙見社となり、それが明治期の神仏分離を経たものであるという。
豊受姫神社(外宮)
木製の神明鳥居があり、玉垣で仕切られた中にお社がある。
御祭神は豊受大神。
平成27年の伊勢神宮式年遷宮の際に内宮の由貴御倉を拝領し、社殿とした。
境内左隅に置かれた木樽に歯固め石が入っていた。
お食い初めに使う。
八雲神社
摂社豊受姫神社の隣に位置する。鉄製の神明鳥居があり、玉垣で仕切られた中にお社がある。
御祭神は須佐之男命。
社殿は一間の銅板葺流造り。
社殿の前に一対の狛犬がある。
江戸流れで右が阿形玉取り、左が吽形子取り。
神楽殿
普段は閉まっている。
銅板葺切妻造りで祭事の際は三方が開放される。船橋大神宮の神楽は船橋市の無形民俗文化財に指定されている。
授与所
手水舎のすぐ近くに新しく授与所が造られていた。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません