水止舞2022@厳正寺
厳正寺
大田区大森の厳正寺(ごんしょうじ)は文永9年(1272年)8月12日、天台宗の僧侶、法円によって開山。元は海岸寺と号した。第二世の法密上人は法力によって加持祈祷を行い、干ばつの時に雨を、長雨の時に晴れをもたらしたとして「權現の聖人」と呼ばれた。第六世了意の時(応永年間)に浄土真宗に転宗して、加持祈祷は行われなくなった。第十世祐智の時に災難が続き、第十一世祐惠によって海岸寺から厳正寺と号を改めた。
祐智本姓は平氏なり、元亀元年織田信長本願寺と合戦の時、己が門徒をひき具してぞ大阪へ馳上り、数度の軍功あり、其後天正十七年小田原北条家本願寺の門徒をにくみ、寺々の分国にある限りは破却せんとす、祐智いかにもしてこの難を遁れんとせしに、剰え時の代官行方修理亮深く法華宗に帰依し、他宗をにくみ、近郷の寺院を没収し、財宝を奪ひとり、しかのみならず明る十八年二月房州里美義隆、按ずるに【里見家譜】に義隆と云人は見えず、義堯を誤りしるせしや、されども義堯にては年代たがへり、義頼なるべし、当所へおし渡り、神社寺院以下を焼討にし、又家財雑具をも奪ひとりしかば、わづかに残りし財宝をもことごとく失へり、今いささか寺宝の存するは、家族彌五郎と云ものかひがひしく持去しものなり、此後祐智は慶長六年三月寂しけれは、其子祐惠寺務をつく、同八年正月二日の夜、夢寐の間何人ともしらず歌をよみてこたへり、その歌の心は寺号海岸の字には崩るるの縁ありて不吉なれば、厳正の字にかへて然るべしといへり、さめて後奇異のおもひをなし、やがて其年の十月より今の寺号あらためり、
大日本地誌大系. 第6巻 風土記稿2
つまりは、十世の時、小田原本願寺との関係が悪化したところに、当時の役人が法華宗以外を排斥したため財宝を奪われ、さらに里見義堯に焼討収奪される災難があったと。十一世が「海岸」が縁起が悪いと夢見したので、改号したということらしい。
水止舞
コロナ禍で中止になっていた水止舞が、今年三年ぶりに7月10日に行われた。本祭は、東京都の無形民俗文化財に指定されている。
水止舞とは、藁でぐるぐる巻きにされた男が水をかけられながら法螺貝を吹き続け、厳正寺まで運ばれた後に三匹獅子舞が奉納される奇祭。道行と水止舞の二部構成になっている。
道行
道行は雨乞いの儀式である。雌雄の「龍神」を模った藁の筒2つを先頭に、少年少女の「警護」の列、笛師連と獅子、ささらを鳴らす「花籠」が進む。厳正寺正門まで50メートル程手前からスタートした。
厳正寺境内に設けられた舞台に龍神が引き上げられた後に藁が解かれ、それで舞台を囲む。その後、笛師連と花籠が舞台に上がる。
水止舞奉納
水止舞は、赤幕で背中に五色の弊を着けた雌獅子、紺幕をした雄獅子(赤顔)と若獅子(黒顔)が、花籠を従えて舞う。
最初に奉納される「雌獅子の舞」の一部を動画でご覧ください。
ありとあらゆるものに龍が意匠されていました。水止舞の印は、乱れ水囲みに三つ鱗(上下にある二つの文様は不明)。龍神役の白浴衣は背中に龍が描かれ、揃いの浴衣は鱗柄。花籠にも牡丹と三つ鱗が交互に描かれていました。
記念品
記念に手ぬぐいを購入。水止舞のしおりと昨年の龍神に使われた藁を頂きました。来年も行かなきゃだね。
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