柞原八幡宮
GWの別府旅行で大分市公設地方卸売市場まで走った際、途中で和菓子屋さんの開店時間に行き当たり、このあたり「浜の市」の名物だという「志きし餅」を買いました。数キロ先に柞原八幡宮があるそうで、なるほど山に向かう道路の先に赤い鳥居が見えました。
薄い透明感のある餅の中に餡こが入っています。斜めの縞模様が入った方形の餅は、藩主の座布団を模したものなんだそう。
お店のすぐ近くに柞原八幡宮参道までの案内図がありました。海沿いを走る国道10号から逸れて山方向に4キロほど進むと着くようです。
柞原八幡宮の御由緒 豊後一の宮
八幡社総本宮、宇佐八幡宮の別宮として創建され、国内における八幡社三万三千餘社中の第一社で、最古の宮であり、平安時代の初期承和三年(八三六)延暦寺の僧金亀和尚、霊現を得て柞原の地に勧進建立された。
祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后の三柱の神を奉している。鎌倉以来、大友氏をはじめ、歴代府内藩主の信仰が厚く、現在の社殿は今より百七十年前、安政年間の造営になり、昭和四十九年式年造営にあたり、桧皮の屋根を銅板葺に改め 朱を塗って華麗。その神殿は八幡りの代表である 太刀二、薙刀直し刀、銅造佛、白檀塗浅葱練腹巻、柞原八幡古文書、(いづれも国指定重文化財 並びに 古文書社宝等(県指定文化財)多数を所蔵している。
南大門は別名、日暮し門と称し、二十四孝およびその他の彫刻が見事である。門の横には国指定の天然記念物、樟の巨木がある 毎年九月十四日より七日間行なわれる仲秋祭(浜の市)は古くより西日本三大市とまでよばれ大変な賑いが見られた
柞原八幡宮仮宮 柞原八幡宮の御由緒 案内板
柞原八幡宮仮宮(お旅所)と火王宮
国道沿いに、柞原八幡宮仮宮(お旅所)があったのでお詣りします。
額束があって根巻や台輪がないので宇佐鳥居ではない。石造りの明神鳥居です。
参道の途中に、提灯山笠がついた合格門があります。北九州の文化を感じます。
参道に垂直し、山を向いて柞原八幡宮仮宮が建っています。
拝殿は入り母屋銅版拭で唐破風付の立派なものです。
参道の先には火王宮(ひのうぐう)。入り母屋瓦葺向拝付平入りです。
火王宮(旧社名 興玉神社)
一、御祭神 猿田彦大神
承和四年(八三七年)、金亀和尚が神殿を造営 道開き 開運招福 人生の道案内や交通事故等の災難から守ってくれる神一、御祭神 生石大明神
明治四〇年、日豊線開設のため此の地に移転 生石の地名の由来となる(元は氏神様)一、御祭神 武内宿禰命
延命長寿 武運長久 厄除け 立身出世一、御祭神 加藤清正公
必勝祈願 学業成就 眼病平癒火王宮代会
火王宮 案内板
愛嬌のある狛犬さんがいました。
大天狗面もあって、「コロナウイルス退散祈願」と書かれていました。
火王宮の本殿です。
火王宮の裏に回り裏参道を出ましたが、振り返ってまざまざと見たら、柞原八幡宮仮宮にとっては表参道になっていました。面白い造りです。石造りの明神鳥居なのは共通。堂々とした銀杏が目立っていました。
柞原八幡宮
大分市街地からバスに揺られて豊後一の宮(旧国幣小社)柞原八幡宮に着きました。
手水舎
バス停のすぐ脇に手水舎があります。コロナ禍のため柄杓はありません。流水を取って口手を清めます。
柞原八幡宮 由緒略記案内板
豊後一之宮(国指定重要文化財)
柞原八幡宮由緒略記御祭神
仲哀天皇(帯中日子命)
応神天皇(誉田別命)
神功皇后(息長帯比女命)主な祭典
例大祭(三月十五日)
夏越祭(七月三十一日)
浜之市(九月十四日~二十日)当宮は平安時代の天長四年(八二七)に宇佐神宮より御分霊を勧請し、承和三年(八三六) 国司により社殿を造営。爾来、皇室も厚く尊崇せられた。
柞原八幡宮 由緒略記案内板
嘉承(一一〇八)には、勅使の参向があり、敷地の四至を定め税を免ぜられた。仁平三年(一一五三)には、鳥羽法皇が六十歳の御賀に御祈願を修せられ、神領を定められた。元暦元年(一一八四)には、源範頼が平氏の追討を祈願したのをはじめ、源頼朝、領主(大友、竹中、日根野)、武家の崇敬も非常に厚く 近世には、社家二百余、坊舎三十を数えた。御本殿は嘉永三年(一八五〇)に再建された壮麗な八幡造り。参道途中に建つ南大門は、「日暮門」と称し、壁面には二十四孝等の彫刻が施され、門の横には樹齢千年の天然記念物の大楠が聳えている。
宝物館には太刀、甲冑、金銅仏等重文六点他を所蔵。
縄鳥居
石段の入り口に縄鳥居がありました。
上八万付近案内図
ホルトの木
根回り約6.4m、大友氏の時代にポルトガル人が寄せたと伝えられる。
ホルノノキの和名は「ポルトガルの木」の意味であるが、これは命名者の平賀源内が黒紫色の実を見てオリーブと間違えて名付けたためで、実際はポルトガル原産でなく日本の在来種である。
鳥居
朱塗りの明神鳥居です。
大楠
南大門手前に見事な大楠がありました。樹齢三千年とも言われているそうです。
南大門
南大門は銅版拭入母屋造向唐破風のある四脚門で、切妻銅板葺の東西脇門が付いています。
扁額には「由原八幡宮」の文字。繊細で美しい彫刻が門全体に施されています。『二十四孝』という中国古来の孝行が特に優れた人物二四人が描かれています。
南大門は別名日暮門と呼ばれます。一日中見ていても飽きないことが由来だそうですが、なるほど本当に見飽きませんでした。
柞原八幡宮案内板
国指定重要文化財 柞原八幡宮 平成28年6月20日指定
柞原八幡宮は、天長四年(八二七)、延暦寺の僧金亀和尚が、宇佐八幡宮で千日間の修行をはじめ、同七年(八三〇)に神告を得たことが契機となって八幡神が勧請さ れたことに起源すると伝えられます。その後、天皇の命で承和三年(八三六)に社殿が造営され、平安時代末期には豊後国一宮となりました。中世には大名大友氏の崇敬を集め、近世には歴代の府内藩主によって手厚く保護されてきました。
柞原八幡宮の建造物群
柞原八幡宮の社殿は、江戸時代中期の寛延二年(一七四九) 大火による焼失後に再建されたもので、伝統的技術で建てられた建造物群がよく保存されています。本殿は類例の少ない八幡造で嘉永三年(一八五〇)の再建です。社殿構成は、楼門や申殿を軸線上に並べるなど、宇佐神宮を範とした独特のものです。また、本殿は縁に脇社を設け、楼門は下層に軒唐破風付の庇を付すなど特異な形式をもつ社殿で構成されており、顕著な地方的特色を示していることから、本殿ほか9棟及び附2棟の計12棟が重要文化財に指定されています。由原宮から柞原八幡宮へ
古くは、田原宮、八幡由原宮あるいは賀来社と称され、「柞原」は明治以降の呼称です。江戸時代までは神仏習合であり、宮師と呼ばれる僧が大宮司と並んで八幡宮の長を務めていました。境内には多宝塔や普賢堂などの仏教系施設も建ち並び、周辺には僧侶の住宅兼寺院である坊が多数つくられていました。しかし明治維新後、明治元 年(一八六八)に新政府から神仏判然令が出された後、境内の仏教系施設が急速に撤去され、坊も姿を消していきました。新たに 設けられた社格制度で、明治四年には県社、大正五年(一九一七)には国幣小社に列せられました。柞原八幡宮の造営
平安時代中期の長徳四年(九九八)以降、宇佐宮にならい、三十三年毎の式年造営が行われたとされ、史料では鎌倉時代までたどることができます。 江戸時代には、府内藩主によって計八回の造営が行われており、その最後は嘉永二年~三年(一八四九~五〇)の本殿造営でした。嘉永の造営では、府内藩の財政改革に活躍した広瀬久兵衛が中心となって運営した「会所」の資金が活用されました。指定建造物の年代
本殿 嘉永三年(一八五〇)
申殿 宝暦二年(一七五二)
拝殿 宝暦一〇年(一七六〇)頃
楼門 宝暦一〇年(一七六〇)
東宝殿 宝暦七年(一七五七)推定
西宝殿 宝暦七年(一七五七)
回廊 寛政一〇年(一七九八)推定
西門 江戸時代末期
南大門 明治三年(一八七一〇)
宝蔵(附) 江戸時代後期頃
八王子社(附) 明和七年(一七七〇)指定文化財データ
■指定名称 柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)
■指定種別 重要文化財(建造物)
■所在地 大分市大字八幡九八七番地
■指定建造物 本殿、申殿、拝殿、楼門、東宝殿、西宝殿、東回廊、西回廊、西門、南大門
(附指定)宝蔵、八王子社、棟札2、絵図面4大分市教育委員会
柞原八幡宮 案内板
南大門を抜けると参道が二つに別れます。境内図をみたところ右を進むと楼門正面に、左を進むと西門に着くようです。
見比べると左の方が整備されていますが、右の方が正面な気がするので右の参道を進みましたが、やたらと緑が生い茂っています。苔むした石段は見上げる程に急峻だし、段幅も小さくて足のサイズにも足りません。
楼門
荒い息を吐きながら楼門に着きました。3間1戸入母屋造銅板葺の楼門で、下層南面庇と軒唐破風が付いています。
楼門の左右の間に随身矢大臣・左大臣が安置され、その床下に狛犬がそれぞれ控えています。楼門であり随神門であるところが、まさに神仏習合のお土地柄。
西門
楼門が閉鎖されていたので、西門に回ります。
社殿
本殿は文化財保存修理工事中につき覆われていて見られませんでした。
申殿、拝殿、楼門が直線で並び、楼門から左右に東回廊と西回廊が続きます。宇佐八幡宮と同じ、とても古いタイプの神社建築様式です。
靴を脱いで回廊に上がり、拝殿に進みます。
ここでは正座して厳かな気持ちで参拝できるのが、気持ち良いですね。人が少ないからこそだとは思いますが。
大鳥居
柞原八幡宮を離れ国道まで走って戻ってきました。
大鳥居は、道路拡張に伴い2020年に建て替えられました。コンクリート製朱塗りの明神鳥居です。
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