志賀海神社

大島をフェリーで出た後、神津港からバスで東郷駅に戻り、香椎駅で香椎線に乗り換えて西戸崎駅へ。そこからはバスで志賀島に向かいました。

志賀海神社

志賀海神社(しかうみじんじゃ)は全国の綿津見神社、海神社の総本社と称し、御祭神は綿津見三神である。

一の鳥居

志賀島バス停からすぐに一の鳥居があります。参道は商店街の中を北に伸びて、鎮守の森の階段に続きます。閉門時間が迫っていたので、急いで階段を上ります。

二の鳥居

志賀海神社 略記

志賀海神社 略記
御祭神 左殿 仲津綿津見神
    中殿 底津綿津見神
    右殿 表津綿津見神

御由緒
 古来、玄界灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神 の総本社」と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。
 御祭神は、伊邪那岐命 が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊祓(ミソギハラヒ)をされた際に、住吉三神と共に御出現された 綿津見三神 で、神裔阿曇族によって奉斎されている。
 御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪を祓い清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されている。
 当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。ニ世紀(遅くとも四世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、併せて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀されたと伝えられている。
 往時の社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石を有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后 の伝説を多く残し、元寇 の役など国家の非常の際に嚇々たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式 』には明神大社 、大正十五年(一九二七年)には官幣小社 の殊遇をうけている。

御例祭 御神幸祭 十月第二日曜日前後(隔年斎行)
    国土祭 十月第二月曜日(流鏑馬奉納)
特殊神事 歩射祭、御神幸祭、山誉(種蒔)漁猟祭

(福岡県無形民俗文化財 )

志賀海神社 略記案内板

太鼓橋と楼門

鹿角庫

鹿の銅像を横目に通り過ぎようとしたら、中に膨大な量の鹿の角があるのに気がついて慄きました。

社殿

拝殿は切妻妻入造、本殿は三間社流造檜皮葺です。

亀石遥拝所

玄界灘が一望できる。

志賀海神社の裏手から山に伸びる道路に出ました。

火焔塚

弘安4年の元寇の際、高野山の僧侶一行が護摩を焚き、博多湾に侵攻した蒙古軍の降伏を祈祷したといわれている場所。不動明王の火焔形をこの地にとどめたため、火焔塚と呼ばれるようになったとか。

志賀海神社からここまでのあまりの傾斜に疲れ果て、脇道に反れる気力もなくなっていたので、遠目に写真を撮っただけになりました。

潮見公園展望台

半分やけになりながら急な坂道をひたすら登り、ようやく島で最も高い場所である潮見公園に着きました。

志賀海神社 沖津宮

展望台からはひたすら下り、志賀島北端の舞能ヶ浜(まいわざがはま)に出ました。

潮が引いて沖津宮にギリギリ渡れそうな雰囲気です。しかし、潮が満ちてきたら歩けるところがなくなりそうで、渡るかどうか思案していたら、島から若い男性二人が下りてくるのが見えました。若者の「余裕っす」って言葉を信じて恐る恐る小島に渡ります。

水に足を浸さずに渡れそうなルートを探しながら、無事小島に到着。鳥居をくぐり、小島の山頂にある小さな社にお参りしました。

中津宮

沖津宮から中津宮(勝馬宮)のある方向を眺めます。中津宮は古墳の中にあります。

金印街道

港に戻るバスはとっくになく、帰りはこの疲れ切った足を動かすしかありません。金印街道を5キロひたすら走ります。途中、蒙古軍を供養する蒙古塚がありました。

美しい夕日を眺めながら、志賀島港旅客船ターミナルから福岡市営渡船の船で、西戸崎経由で博多湾に戻りました。海風は寒かったけど、花火が見えたりしてよい時間でした。

博多に戻り、ウエスト川端店でごぼ天うどんと鶏飯おにぎりで晩ご飯。

朝に長浜市場で海鮮丼を食べたきりでしたので、炭水化物が沁みました。